ワンナイトミステリー 「巴里の恋人」殺人事件 吉村達也 [#表紙(表紙.jpg、横192×縦192)] [#改ページ]   眠れない夜に──    ワンナイト ミステリー [#改ページ]  山添亜希子がパリに行ってみたいと思ったのは、ほんの小さなエピソードがきっかけだった。  凱旋門《がいせんもん》からルーブル美術館方向へまっすぐ伸びるシャンゼリゼ大通り——それにジョルジュサンク大通りがまじわる一角に『フーケ』という有名なカフェがある。  創業者の名前がルイ・フーケ。アルファベットで綴ると FOUQUET。  店の名前も創業者にちなんで『フーケ』だが、ただしこちらは英国風に所有格のSを付けて『LE FOUQUET'S』とした。英語式の発音で読めば『ル・フーケッツ』。そして、この名前をヒントにして、日本のあの|※[#「几の中に百」]月堂《ふうげつどう》ができたというのだ。  そんな由来を耳にしたので、衝動的にこのフーケというカフェでお茶を飲んでみたいと思った。  もうひとつのきっかけは、とある美術書で目にした一枚の絵画だった。  作者はロベール・ドローネー。  制作は第一次世界大戦がはじまる二年前の一九一二年。  題名は『パリの街』。  ただし作品の印象は『パリの街』という響きからくる一般的なイメージとはだいぶ違っていた。  ドローネーはキュビスム系の画家である。キュビスムとはキュービック(立方体)という単語に由来するが、この流れの代表画家のひとりとなったジョルジュ・ブラックの作品を、美術記者が「すべてのものを幾何学的に、立方体に還元する」と批評したところから生まれた。  キュビスムのもっとも有名な画家はパブロ・ピカソである、といえば、この系統の絵画のイメージはつかみやすい。ピカソが一九〇七年に発表した『アヴィニョンの娘たち』という作品こそ、キュビスム美術の原点であるといってもよい。  遠近法や明暗法を使わずに、視点の解体と合成といった手段によって三次元を表現しようとするために、見慣れぬ者には幾何学的な図形の集まりとしか見えないのがキュビスム絵画の特徴だった。  しかし亜希子は、ピカソやブラックに較べて、ドローネーの作品は色づかいに詩情があると感じた。だから、キュビスム特有の、視点の解体合成がさほど気にならない。白っぽい壁にドローネーの作品を写真に撮ったものをポンと掛けておくだけでもすてきだな、と亜希子は思う。  ピカソはごめんなさいだけど、ドローネーはおしゃれ——それが亜希子の感覚だった。そして、ドローネーの作品が所蔵されているポンピドゥ芸術文化センター国立近代美術館を訪れてみたいと思った。  カフェ『フーケ』とドローネーの絵——この二つを自分の目で見たくて、山添亜希子はパリに行こうと決めた。いまから二年前、二十三歳のときのことである。  短大を出て会社に勤めてから三年目にあたるその年の秋、亜希子は土日を含めた八日間の休暇をとってパリに行った。ツアーにも入らず、連れもいない完全な一人旅である。  亜希子は決してフランス語が堪能《たんのう》なわけではなかった。それどころか、ほとんど解さないといってもよい。メルシーとかボンジュールとかウイといった、ごくごく基礎的な単語くらいは知っていたが、それとて日本語のカタカナ表記にしたとおりの発音でしか言えなかったから、ほとんど実戦の役には立たなかった。rの発音などは、百年かかってもできそうにない。  そんな亜希子が、はじめてのパリの旅を単独行にすると決めたのは、もともと彼女が基本的に人間ぎらいだったためである。人と話すのが好きではないから旅に同伴者がいるとうっとうしいだけだし、沈黙が好きだから外国へ行ってもその国の言葉をしゃべる必要性をあまり感じない。  むしろ、言葉が通じないということは、亜希子にとっては脳に入ってくるよけいな情報がシャットアウトされて大歓迎なのだ。  彼女は東港金属という小さな会社の経理部に勤めていたが、会社でも友だちはほとんどいなかったし、自分から積極的に同僚と交わろうともしなかった。  もともと顔立ちが地味であるのに加えて、そのように孤独を愛する傾向にあったから、自然と≪山添亜希子は変わり者≫といったイメージが社員の間に定着していた。もちろん、亜希子に恋人がいるとは、誰も思っていない。「いるわけがないじゃん」というのが、口さがない同僚の断定的結論である。  ところが——  二年前の秋のパリ旅行で、亜希子はボーイフレンドを作って日本に帰ってきた。それも、よりによってフランス人の若者である。  その名前をロベールといった。  苗字《みようじ》は……ない。  そして、ロベールの登場とともに、亜希子はわずかながらではあるが、変わっていった。一部の同僚とはよくしゃべるようになったし、ロベール以外の男性にも——つまり、日本人の男性にも——異性としての興味を示すようになった。  そして彼女は、ある人物に本格的に恋をした。  経理部の上司、木倉浩一である。 [#改ページ]  男は白目をむいてベッドの上で死んでいた。  シーツが腰のところまでめくれていて、血の気を失った上半身がむき出しになっている。ロウのようにすべっとした肌がライトに照らし出された。  鑑識員の手が伸びてシーツをはぎとる。  全裸だった。  ベッドの枕元《まくらもと》にあるナイトテーブル。その上に飲みかけのグラス。薔薇《ばら》色の液体が半分ほど満たされている。 「あれが男の命を奪ったカンパリのグレープフルーツジュース割りだ。午前二時四十分にホテルのボーイがルームサービスとして届けている」  しわがれた声が説明した。 「殺害現場の部屋はツインルーム。二つあるベッドのうち、片方は使われた形跡がない。彼の性器には性交渉の跡があった。バスルームも濡《ぬ》れていて、水をぬいたバスタブの底から、本人のもの以外にも女のものらしき毛髪が見つかっている」  バスルームの備品からも、そのホテルが一流と呼ばれるにふさわしいものであることがわかる。 「カーテンは開いたままだった」  窓辺によると、道路をはさんだ向い側の高層ビルが目に入る。すでに日が昇っているが、まだビジネスビルのオフィスに人がいる時間ではない。  1402号室、つまり十四階の高さから眺める街は、まだ眠っていた。  もう一度、死体。こんどは顔のアップ。  たぶん、生きているときはずいぶん女を泣かせたのではないか——そう想像するにたる端正な顔立ちをしていた。 「木倉浩一、三十六歳。東港金属の経理課長だ。いい歳だが、妻子はいない。独身で結婚歴もない。ひとりで南青山のマンションに住んでいるという結構な身分だった。彼は前夜九時にひとりでチェックインしている」  しわがれ声が二度三度、空咳《からせき》をした。 「まあ、現場に関しては以上だ」  そう言われ、鷲尾康太郎警部はやっと緊張を少し解いて、軽くため息を洩《も》らした。  彼は警視庁捜査一課たたきあげのベテランである。死体を見たくらいでショックを受けるヤワな神経の持ち主ではない。青酸カリによる変死体などまだいいほうで、もっとむごたらしい光景を、一年のあいだに数え切れないほど見る。商売柄、それは仕方がない。  しかし、今夜のように現場でビデオ撮影されたものを、四十二インチというべらぼうに大きなテレビで鑑賞するのは初めての経験だった。しかも隣には、普通なら声もかけてもらえない雲上人、警視総監が座っている。  ここは目黒区青葉台——総監の自宅である。  総監はリモコンに手を伸ばして、ビデオの電源を切った。  ポツンと小さくなって消えていく点を、鷲尾はボーッとながめていた。 「捜査一課に面白い警部がいるという噂《うわさ》は前々から聞いておってね」  和服に着替えた総監は、鼈甲《べつこう》ぶちの眼鏡をはずすと、ゆっくり時間をかけてパチン、パチンと音を立てて折り畳んだ。 「きみに関する資料を取り寄せ、いろいろと見させてもらったよ」 (そんなことが知らないまに行なわれていたのか)  鷲尾はギクッとした。 (まずいことは調べられていないだろうな。休日には高校生の息子と一緒にロックのコンサートに行くとか、女子大生の娘とその友だちを連れてディスコにくりだすとか、四十五になって帰宅と同時に妻にチュッとキスをする習慣が続いているとか、そういうことまでは知れてないだろうな……) 「なかなか若者の流行事情に詳しいそうじゃないか、きみは」 「は、いえ、そんなことは」  鷲尾は口ごもった。 「一昨年だったか、六本木のディスコで照明器具の落下事故があったとき、非番の君はそこで踊ってたそうだな」 「あ、あれは」 「いいんだ、いいんだ。おかげで通報がスムーズに行なわれたと聞いている。豆タンクのようなその身体で、齢《とし》も気にせず、若者たちの間で踊る度胸とエネルギーはたいしたものだと思うよ」 「恐れ入ります」  小柄だが柔道で鍛えたズングリとした身体をちぢこめて、鷲尾は赤くなった。  そこで総監は少し黙ると、妻のいれた玉露を静かに口に運んだ。もちろん鷲尾の前にも茶菓が出されているのだが、それに手をつけるゆとりは警部にはなかった。  総監だけがうまそうに茶を飲む合間に、庭先の筧《かけひ》がカタンと音を立てるのが、障子越しに聞こえた。  夜はだいぶ更けている。 「それから……」  和菓子を黒文字で切りながら、総監はつづけた。 「髪の毛を逆立て化粧をした連中のコンサートにも、きみはマメに足を運ぶそうだな」 「えっ、そんなことまで」 「伊丹部長の一番下の中学に行ってる娘さんが、横浜アリーナできみを見かけたそうだ」 「いや、まことになんとも……恐縮です、すみません」 「謝ることはないよ」  総監は、はははと声を立てて笑った。 「なんでも、少年少女の生活にハダで触れなければ、彼らを取り巻く犯罪は解決できない、というのがきみの持論だそうだな」 「はっ、えらそうな大口をたたきましてお恥ずかしい。そんなところまでごぞんじとは、ハンカチが何枚あっても足りませんな、これは」  鷲尾警部は汗をびっしょりかいていた。  そんな鷲尾を好意的な目で見つめながら、総監はつづけた。 「なあ鷲尾君、私は思うのだが、きみのように好奇心|旺盛《おうせい》な中堅捜査官がもっともっと増えてくれれば、迷宮入りの事件も減っていくのではないだろうか」 「………」 「音楽、スポーツ、ファッション、テレビ、ビデオ、芸能界、パソコン、性風俗、宗教、その他もろもろの流行現象——こうしたものに対する基礎知識を捜査官ひとりひとりがしっかり心得ておかないと、さまざまなタイプの犯罪に対応していけないと思うのだ」  総監の顔がしだいに真剣になっていった。 「いわゆる『異常心理犯罪』という言葉があるだろう」 「ええ」 「しかし、そこでいうところの『異常』とは、たんに捜査官の常識にないというだけのことかもしれない。逆にいえば、捜査官の常識の幅がうんと広がれば、異常心理犯罪と呼ばれている事件のかなりの部分は、通常の犯罪として処理できるような気がする。異常というレッテルを事件に貼《は》ることは、捜査当局みずからが、これはのっけから難しいぞという先入観念を抱くことにつながる。それは事件解決という側面からみれば、決して好ましいことではない。だから、できるだけ異常心理犯罪という概念を消滅させていかなければ、というのが、最近私の考えているポイントなのだ」 「………」  鷲尾は、総監がいったい何を言わんとしてるのかつかめずに黙っていた。  すると総監は、手に持った眼鏡の蔓《つる》を、またパチン、パチンと開いたり畳んだりした。 「じつはね」  かすれ声がいっそうかすれる。それは重要な発言をするときの総監の癖だった。 「きょうは特命を下すために、きみにここへきてもらったのだ」 「特命……ですか」  その言葉に、鷲尾は反射的に背筋を伸ばした。 「こんど警視庁刑事局の中に『チーム|4《クアトロ》』という、どの部にも属さない独立組織を作ることにした」 「チーム・クアトロ?」 「それは通称で、正式には『特別犯罪捜査班』という。ただし、まったく極秘に作られる組織で、公式には警視庁の中にこういう部署はないことになっている」 「表面上は存在しないと……」 「タテマエ上は、というべきかね。これはわずか四人で結成されるシークレット・チームだ。クアトロとはイタリア語で『4』を指す」 「スパイ映画のようですね」  おもわず鷲尾はそう言った。 「たしかにそう思うかもしれん」  総監もうなずいた。 「現実感がない話だからな。しかし、これは間違いなく現実の話なんだ。時代は変わっているんだよ、鷲尾君」  目の前の畳のへりに眼鏡を置くと、総監は和服のたもとに手を入れて鷲尾をじっと見つめた。 「政治家も変わらねば新しい時代にもはや対応していけなくなっているし、捜査官もまたしかりなんだ。いつまでも伝統的な刑事魂で事件が解決していけると思ったら大間違いだ。しかし、だからといって組織の方向性を急激に変えるのも困難なことだ。したがって、警視庁のごく一部に、変化を先取りするパイロット的な小さな組織を作り、そこで新しい捜査方法、および新しい人材の開発を極秘に進めていこうと、こう考えたわけだ」 「あの……失礼ながら」  遠慮がちに、鷲尾はたずねた。 「このプロジェクトの発足は、正式に認可されたものなのでしょうか」 「認可?」  総監は笑った。 「鷲尾君らしからぬお役所的な言葉が出てきたな」 「はあ」 「警察庁長官も、国家公安委員長も、自治大臣も法務大臣も総理大臣も、このことは知らないよ。霞ケ関の高級官僚の中で知る者もいない。これは私ひとりの裁量によるゲリラ的な機構改革実験だ」 「で、四人でチームを組むとおっしゃいましたが、私以外の三人はどんな顔ぶれなんでしょう」 「それは徐々に明らかにしていく。まだ正式に残り三人を選んだわけでもないのでね。まず最初に、チーム・クアトロのリーダーとしてきみが適確かどうか、そこから見極めねばならないと思っている」  鷲尾を見つめる総監の視線が、急に鋭くなった。 「そういたしますと、いまビデオで見せてもらった事件が、いわば私の力だめしということなんでしょうか」 「そうだよ。もちろん、捜査一課がすでに扱っている事件だから、概要はきみも承知していたと思うが」 「しかし、あれは小林班の担当です」 「彼らは一カ月以上経ったいまも、何の手がかりもつかんでおらんじゃないか」  総監は険しい表情になった。 「これから説明するが、第一発見者でもあり容疑者でもある山添亜希子の供述する背景が、とても変わっているのだ。つまり、彼女の屈折した心理が事件を引き起こした公算が大というわけだ。ところがどうだ、総監の私が言うのもおかしいが、容疑者の行動や心理にちょっと風変わりなところがあると、とたんに捜査が停滞してしまう場合がある」 「お言葉ですが総監、そうしたケースでも、我々は苦しいなりに最善を尽くしているつもりでおるのですが……」 「最善? 尽くしていないねえ、最善は」  口調はやわらかいが、総監の言葉はきつかった。 「単純な痴情|怨恨《えんこん》の殺人とちがって、屈折した心理によって引き起こされた犯罪は、その容疑者の心理をとことん読まなければ解決はできない。つまり、有能な心理学者であり精神分析医でもある側面が捜査官に要求されるのだ。しかし、いまこの事件を担当している連中はどうかね。経験則と常識だけに縛《しば》られた四角四面の発想でしか捜査を進めていけないだろう。それでは不満だというんだよ。容疑者の心の中に深く入っていける捜査官なしには、こうした事件の真相には到達しえないだろう。  日本を動かす政治家や官僚が、そして日本を守る警察官が、時代感覚を置き去りにしたまま仕事をしている、というのがいまの日本の現状ではないかね。私がこんなことを言ってはまずいが、政治家や官僚の後進性がどうにもならないところまできているならば、せめて国民の安全を守る立場の捜査員くらいは、国民と同じレベルの感性を持っていなければならないと思うのだ。つまりそれは、犯罪者の心を読む、ということにもつながるわけだ。なぜならば、犯罪者だって国民のひとりなのだからね」 「………」 「本来ならば、全国の警察組織で改革運動をはじめたいところだが、とりあえずは警視庁の一角から手をつけようというわけだ」  総監の気迫に、鷲尾は何も言葉を返せなかった。  と、そこで総監は急に表情をやわらげた。 「ところで、私は推理小説が好きでね」 「推理小説……ですか」 「警視総監が推理小説マニアというと何かと世間に誤解されるので、あまり公の場で言ったことはないのだがね。ミステリーというものは、作り事ならではの自由な発想の飛躍があって、私は非常に楽しいものだと思っている。しかし推理小説家の中にすら、他人の作品を評して『そんなことは現実の警察捜査ではありえない』などと、つまらない現実論にこだわっている人がいる。あれはいささか興をそぐね。  いや、作家を非難しているのではないよ。そうした発言の根底にあるものは、警察とは非常に保守的で応用のきかない捜査活動しかしていないというイメージではないだろうか。それが困るのだ、現実を言い当てているだけにね。私はね、むしろ本物の警察官のほうこそ、推理小説に出てくる名探偵に近づかなくてはならんと思っている。私の言いたいことがわかるかね、鷲尾君」 「はあ、少しは」 「推理作家がこのまま、現実の捜査活動を正確に描写することだけにこだわり続けたら、いったい誰が風変わりな犯罪を解く想像力を与えてくれるんだね。いや、これは冗談だけれども」  鷲尾は、しだいに総監の言わんとするところがわかってきた。ひとことで言えば、もっと柔軟に、もっと大胆に想像力を働かせて犯罪捜査に取り組め、ということではないだろうか。そしてその想像力を養うものは、日ごろから培っておくべき物事に対する旺盛《おうせい》な好奇心である、と……。 「それで話を元に戻すが、先月発生した東港金属経理課長殺害事件に関して、私は新たなる捜査陣容を組めと、すでに命令を発してある。きみと小林恭兵君が直接ペアを組んで捜査にあたるのだ」 「え、ほんとうに小林警部と組むんですか、私が」  鷲尾警部は大きな声を上げた。 「それはいけません、まずいです」 「どうしてかね」 「だって、彼はこの事件のチーフですよ」 「それがどうした。メンツの問題か? そんなものは放っておきなさい。所属上長の許可はとってある」 「ですが……」 「小林警部は既成の捜査方式にこだわるタイプで、むしろきみのような常道にこだわらぬタイプの人間を、日ごろから批判しているそうではないか」  そのとおりだったので、鷲尾は黙っていた。 「かまわんじゃないか。二人の才能を思い切りぶつけあいなさい。それによって思いもよらなかった着想が出てくるかもしれない」 「ですが」 「ですが、はもういい。きみも腹がへっただろう。女房が隣の部屋に食事を用意しているから、いっしょに食おう。お座敷天ぷらというやつだがね」 「ですが」 「ですが、はきみの口癖か」  総監は笑った。 「今夜はゆっくりしていきなさい。どちらにしても明日からは忙しくなる」 「はい」 「それから酔っぱらわんうちに言っておくが、チーム・クアトロの話は極秘だぞ」  総監は、鷲尾を見据えた。 「リーダー候補としてのきみの適性検査の中には、口の堅さも含まれている。そのことを忘れないように」 「はっ」 「よし。それではメシにしよう」  総監はすっと立ち上がったが、鷲尾はなかなかその場を動けなかった。  いままでに経験したことのない、一種独特の緊張感が彼を包んでいた。 [#改ページ] 「山添亜希子という女は東港金属の経理部経理課につとめていた。つまり、死んだ木倉浩一の部下だった」  照り返しの強い道を鷲尾と並んで歩きながら、小林警部は何度もこれまでに伝えたことを繰り返した。 「田舎の短大を出てすぐに入社したんだが、地味な女でね、二十五歳になる今日までボーイフレンドひとりいないらしい。それだけじゃない、これといった同性の友だちもいないという、まあ孤独な女なんだ」  小林は鼻で笑った。 「顔見たら、それも納得できるけどな。目の小さい女でね」 「顔で先入観念を持つのはどうかな」  ハンカチをぐしょぐしょに濡《ぬ》らすほど汗をかきながら、鷲尾は言った。 「目が小さい人が孤独とは限らんだろう」 「いや、これは長年のカンさ」  小林は意地を張った言い方をした。 「目の小さい人間は孤独なんだよ」 「だったら、目の細い人間がキツネのようにずる賢いと決めつけられたら、おまえはどんな気がする?」  鷲尾の切り返しに、小林はムッとなった。まさに彼がそういう目をしていた。 「不愉快だな」  小林は吐き捨てた。  彼は、自分がなぜこうした変則的なコンビを組んで、捜査のやり直しをしなければならないのか、本当の事情をまったく知らされていなかった。同期の捜査官で、しかも捜査哲学がまるで反対の男とペアを組まされる不満を、小林は隠そうとしなかった。 「それなら鷲尾、おれも独断と偏見のお返しをしようか。コロコロした体格の人間は無能だというふうに」 「なるほど」  鷲尾は苦笑した。 「スタイルのいいあんたから見りゃ、そういう理屈も生まれるんだろうな」  細身の小林と、豆タンクとの仇名《あだな》を持つ鷲尾では、何から何までが対照的だった。少なくとも見てくれに関しては、小林は鷲尾に対して優越感を抱いていた。 「ところで、亜希子はもう勤めは辞めたんだな」 「あきこ?」  小林は聞き返した。 「そうだよ、山添亜希子だ」 「ああ、山添か」  小林は納得してうなずいた。 「テレビドラマみたいに下の名前だけで言うなよ。誰のことかわからなかった」 「女の子は自分の名前に影響を受ける、というのがおれの持論でね。苗字《みようじ》でなくて、なるべく下の名前で読んだ方がイメージが湧《わ》くんだ」 「山添は……」  小林は、鷲尾の言葉を無視してつづけた。 「事件の直後に退社届けを出している。すっかり犯人扱いされたんで、とてもいられる雰囲気じゃなかったんだろう」 「誰に犯人扱いされたんだ」 「決まってるだろ、同僚にさ。なにしろ彼女は深夜の三時半に例のホテルにいたんだ。木倉が殺されたホテルにね。いちおう第一発見者ということになっているし、彼女は自殺説を主張している。だが世間はそうはとらないさ」 「どうしてそうはとらないんだ」  鷲尾に食い下がられて小林はムッとした。 「もう何度も話しただろう。山添の言い訳が突飛《とつぴ》だからだ」 「突飛かどうかは、これから本人に会ってみないとわからないな」 「ぼくはもう会っているんだ。飽きるくらいにね」 「おれは、まだ会っていないよ」 「………」  小林がキッとにらんだ。  だが、鷲尾は知らん顔でつづける。 「おれはねえ、小林、相手と直接話をしないうちは一切の先入観念を持たないことにしているんだ」 「鷲尾、それはぼくのこれまでの捜査方法を否定するということか」 「……お、ここだな」  気色ばむ小林をはぐらかすように、鷲尾は上を見あげた。  山添亜希子が住む六階建てのマンションがそこにあった。名前はマンションだが、団地と呼んだほうが似合う庶民的なつくりだった。建物の真ん中に階段があり、出入口の周りには子供の三輪車が何台も置かれている。  クーラーの室外機があちこちでブンブン唸《うな》りを立てていたが、中には窓を開け放した部屋もあり、そこからはトントンという包丁の音が聞こえ、カレーライスなどの匂《にお》いが漂ってくる。いまはちょうど昼どき。きちんきちんと十二時には昼食を作るという主婦が多そうなマンションである。 「ここから行こう」  小林のほうが先頭に立って階段を上った。 「ほんとにいちばん上まで階段で行くつもりか」  四階まで上ったとき、鷲尾は、汗で身体にへばりついたワイシャツをはがしながら言った。 「エレベーターがないわけじゃないんだろう」 「あと二フロアじゃないか。どうした鷲尾、おまえはおれと同い年なんだろ。そんなに体力がないのか」 「体力はある。これ以上汗をかくのがいやなだけだ」 「それがいやなら痩《や》せるんだな」 「それより小林は、こうやって階段を上っていくところを、マンションの住人に見せびらかしたいだけじゃないのか」 「考えすぎだよ」 「しかし、あちこちで我々のことを見ているぞ」 「そうかい。そんなこと知らんよ」  最上階の六階までたどり着いたところで小林はネクタイを締め直し、呼吸を整えてから亜希子の部屋のチャイムを鳴らした。  はい、と返事がしてドアが細目に開いた。 「山添さん、失礼します。一課の小林です」  背広の内ポケットから警察手帳をのぞかせて、小林は半身を中へ滑り込まそうとした。「あ、ちょっと」  女がとまどった声を出した。  後ろに控える鷲尾からは、その顔はまだ隠れて見えない。 「お部屋を片づけますから、少しだけお待ちください」  小林が一歩後ろに下がると、ドアがすばやく閉められた。 「ちょっとお待ちくださいだと」  鷲尾のほうをふり返りながら、小林は肩をすくめた。 「男がたずねてきているわけじゃあるまいし、もったいぶることもないのにな」 「きみは、いつもそうやって警察手帳を出すのか」 「あたりまえだよ。何がおかしい」 「彼女に会うのは今回がはじめてじゃないんだろう」 「もちろん」 「だったら、いちいち手帳の提示は必要ないはずだ」 「癖だよ、癖。たんなる習慣ってやつだ」 「廊下の向こうで、六階の住人がじっと見てるじゃないか」 「いつだって庶民は好奇心のかたまりだよ。気にしていたらキリがない」 「そういうきみの配慮に欠けた行動が、周囲に予断を与えているんだ。それで、そうした人間から、きみは聞き込み捜査をしているんだろう。それじゃあ不正確で偏見にみちた情報しか得られない」 「うるさいな。ほら、入っていいってさ」  小林警部が、ふたたび開かれたドアをアゴで指した。 「すみませんね、たびたび」  ずかずかと小林は入っていき、慣れた様子で玄関で靴を脱いだ。  そのときはじめて鷲尾康太郎は、事件の第一発見者であり、そして犯人とも疑われている山添亜希子と対面した。  たしかに影の薄い女だった。  八の字に下がった眉《まゆ》が彼女に泣き出しそうな表情を与え、小さな目は何かにおびえるように落ち着かない動きを見せている。  小柄な身体にぱさついた髪、化粧気もほとんどない。  白いカットソーに、白いスカート。まるで無罪を主張しているかのような白づくめの服装だが、青ざめた顔色の彼女には白がいまひとつ似合わない。  鷲尾は亜希子を一瞥《いちべつ》すると同時に、部屋の様子をすばやく観察した。  片隅で留守番電話のランプが灯っている。  ははん、あれだな、と鷲尾はその光景を目に焼き付けた。  それにしてもその赤いランプが目立つのは、部屋の中が暗いせいだった。外は快晴、夏の日の真っ昼間だというのに。 「なんだか暗いですね」  小林が同じ疑問を口にした。 「ブラインドを閉めてありますから」  亜希子はボソッと答えた。 「刑事さんたちがきているところ、見られたくないんです」 「ここ六階ですよ、覗《のぞ》かれやしませんよ」  無神経な言い方をすると、小林警部は窓際へ行き、ブラインドの羽根の角度を変えて、日差しが入ってくるようにした。  まぶしそうに顔の前に手をかざした亜希子の手のひらに、顔に、白い洋服に、ブラインドの影が斜めに走る。  2DKのマンションのリビングルームは、格段に明るさを増した。 「これでよし。ぜんぜんいいじゃないですか、ブラインドを閉め切っているよりも。暗い部屋にいたら、気持ちも暗くなりますよ」  あははと笑うと、小林は亜希子に向かって、鷲尾をかんたんに紹介した。  亜希子は警戒の色を浮かべた顔で会釈をし、鷲尾は、どうもと短く挨拶《あいさつ》した。そしてすぐに、彼は違う方向へ目を向けて言った。 「あの絵、なかなかいいですねえ」  鷲尾が目をつけたのは、白い壁紙を貼《は》ったリビングの中央に飾られてある額だった。  横長の構図の左側にセーヌ川、右側にエッフェル塔、そして中央には裸身の美女が三人描かれているものだが、キュビスム特有の描き方のため、セーヌ川もエッフェル塔も、そうだと言われないかぎり、画面に描かれていることを見落としてしまいそうである。  しかし裸身の女性の肌色や、風景の緑や水色が非常に淡い色彩で描かれているため、抽象性の強い構図でありながら違和感があまり感じられなかった。 「これは誰の絵なんですか」  さらに額に近寄って、鷲尾がたずねた。 「ロベール・ドローネーの作品です。『パリの街』という題なんですけれども」  新顔の捜査官が意外なところに興味をみせたので、山添亜希子は少し警戒心をゆるめた顔になった。 「ただしこれは……」 「模写ですか」 「いえ、模写でもなくて、美術書の切り抜きなんです」  恥ずかしそうに亜希子は答えた。 「二年前にパリに行って本物を見て、とても感動したものですから」 「そうですか。こういうタイプの絵は、えてしてどこがいいのかわからんような物が多いですが、これはなかなかいいじゃないですか。素人の私にも、よさみたいなものがわかりますよ」 「そうですか」  亜希子は、うれしそうに微笑《ほほえ》んだ。小林警部には一度も見せたことのない笑顔である。 「もとは水彩画なんですか」 「いえ、油絵です」 「ほう、この色合いで油絵なんですか」  鷲尾は感心したように唇をまるめた。 「油絵でもこういう水を感じさせる透明感が出せるんですねえ」 「ドローネーがこの絵を描くときに、セザンヌの晩年の水彩画が頭の中にあったのではないかと言われています」 「そうなんですか」 「さてと、山添さん」  小林が、二人の会話をさえぎった。 「もしよろしかったら、もういちど所轄署まで御足労いただきたいんですが。ええ、警視庁までお越し願う必要はありません。すぐそこです。もちろん任意ですから、お断りになるのはご自由ですが」 「わかりました。まいります」  小林警部の訪問は、再度の事情聴取を意味すると承知していたのだろう、亜希子はとくに拒絶の意思も示さずに、すんなりとうなずいた。  そして窓際へ歩み寄って小林が開けたばかりのブラインドをまた完全に閉めると、亜希子はブルーのバッグを肩から下げた。 「あ、あのねえ。ちょっと待ってください」  外出の用意を整えた亜希子に、鷲尾が声をかけた。 「いまからこのクソ暑い中を歩いてむさくるしい警察署へ行くよりも、日が落ちて少し涼しくなってから、どこかへ飲みに行きませんか」 「なんだって」  小林があっけにとられた顔で言った。 「取り調べにそんな変則は許されんぞ」 「おれは取り調べをしたいんじゃない。この人とゆっくり話がしたいんだよ。わかる? 聴取じゃなくて会話、雑談、それがしたいんだ。……あ、そうだ亜希子さん、あなた、お酒飲めますか」 「少しなら」  亜希子は、型破りな提案に戸惑っていた。 「よし、これで決まった。夜にまた出直しましょう。どこか行きつけの店あります?」 「あの、行きつけというほどではありませんけれど、ときどき先輩に連れて行ってもらった『カルロス』なら」 「カルロス、ですか。そこ、何時からやってますか」 「深夜営業のバーなので、夜八時に開くんですけれど」 「いいじゃないですか。じゃ、そこへ行きましょう。八時半くらいでどうですか」 「いいですけど、会社の人がきているかもしれません」 「東港金属の?」 「はい」 「気にしないほうがいいですよ。だってあなた、もう会社辞めたんでしょ」 「それはそうですけれど……」 「だったら、他人の目なんかを意識する必要はありませんよ。どうせ会社を辞めた人間は悪く言われる運命にあるんですからね。それよりも、あなたにとっては汚名を晴らすことの方が大切だ。そうでしょう」 「はい」 「じゃあ、そこでゆっくり話を聞かせて下さい」 「おい、鷲尾」  小林は、怒っていた。 「そういうやり方は問題になるぞ」  だが、亜希子は鷲尾の言葉に力づけられたかのようにきっぱりと言った。 「私、そのときにいままで言えなかったことも含めて、ぜんぶお話しします。課長さんとのことを」 [#改ページ] 『カルロス』というバーはこぢんまりとしていて、十五人も客が入ればいっぱいになった。  鷲尾と小林の両警部が出直してきたとき、すでに亜希子は端のテーブル席をとって待っていたが、ほかに四組ほど客がいた。 「いつもはあそこが指定席なんです」  亜希子はカウンターのとまり木を指した。中では背の高いバーテンダーがシェイカーを振っている。 「よかったわ、会社の人がいなくて。やっぱり気になるから」  とりあえず三人はビールで乾杯した。  捜査官が二人に、疑いの目でみられている人間が一人。奇妙な乾杯だった。小林警部は、グラスを合わせることそのものに抵抗を示し、渋い表情を崩さなかった。  鷲尾と小林は一気に飲み干し、亜希子は三分の一ほど飲んでグラスを置いた。 「さてと、亜希子さん」  唇の泡を手の甲でぬぐうと、鷲尾が言った。 「大まかな話は小林警部から聞いているんですが、もういちど最初から事のいきさつをお話しいただけますかね」 「わかりました」  膝《ひざ》に置いたハンカチを握りしめ、亜希子はうなずいた。  店には適度なレベルでBGMが流れているし、客の話し声もあったので、低い声で話すかぎりは他人に内容を聞かれるおそれはなさそうだった。 「会社の先輩にあたる女性社員二人と、この店で飲んでいたことからお話しするのがいいかもしれません」  亜希子の回想がはじまった——      *     *     * 「……あ、ロベール? うん、そうなの。いま六本木の『カルロス』、いつものバーよ。みんなですっかり盛り上がっちゃって。だからきょうは遅くなりそう。……あー、心配してるのかなあ。だいじょうぶだってば。ここにいるのは女の子だけです。二人とも会社の先輩なの。  それよりねロベール、こんど夏休みが五日ほどとれそうなの。それで、またそっちへ行こうと思うんだけれど、パリに。いいかしら? もしもロベールが迷惑じゃなかったら、そうしたいの。……ううん、私は平気よ、どんなに短くてもそっちへ飛んでいくわ。五日間の休みだと、実質三日くらいしかそっちにいられないと思うけれど、それでもロベールのそばにいたいの。会いたいの。会って抱きしめてほしいの。だって、このごろすごく淋しくて。  ……ごめんね、泣いちゃいそうになって。せっかくパリに電話してるのに、こんな声を聞かせるつもりじゃなかったんだけど。……うん、ありがとう。はい、ちゃんとタクシー拾って帰りますから。はい。……あ、そろそろ、十円玉切れちゃうかな。ごめんね、あと一個しか残っていないから。  それじゃあね。あ、もしよかったら、あとで家のほうに電話ちょうだいね。もっとゆっくりロベールとお話ししたいから。じゃ、おやすみなさい、ボンニュイ」  亜希子はチュッとキスを送ると、静かに受話器を置いた。  パリへの国際電話のはずが、十円玉三個ですんだ。  電話を終えてから、亜希子は少しうしろめたそうな目つきで、横のカウンターで飲んでいる二人のほうを見た。  二人とも横顔だけれど、耳はこっちを向いている感じだった。 (静かな店だけど、受話器の向こうの声まで聞こえるわけじゃないし、何番にかけていたかも見られていない。へいき、わかりっこないわ)  亜希子は自分に心の中で言いきかせて、待っている二人の間のスツールに戻った。 「パリがなんだって? 亜希子」  左隣の五十嵐久美がきいてきた。予想どおりの反応。 「まさか、そこから国際電話をかけてたんじゃないでしょうね」 「いえ、そんなことはありませんけど」  小さな声で、亜希子が恥ずかしそうに答える。 「でも、ロベールがどうのって言ってたじゃない」 「あ、聞こえました?」  こちらの言葉は、部分的にわざと聞こえるように声を高めて話していた。いまさら「聞こえました?」もないのだが、亜希子はいかにも困ったという顔をした。 「それ、彼の名前?」 「そうです」 「まさかあなた、外国人とつきあっているんじゃないでしょうね」 「えーと……そうです」 「ほんと?」  久美は大きな目をさらに丸くした。 「ほんとにそうなの?」 「ええ」  うなずく亜希子を、久美はまじまじと見つめた。  五十嵐久美は東港金属で常務取締役付きの秘書をしている。背が高くてスレンダー、漆黒のストレートヘアは腰まで届きそうだ。そして理知的な美貌《びぼう》。  この六本木|界隈《かいわい》を歩いていても、つぎつぎと男たちがふり返る。まるで彼女には、男たちの身体を半回転させる特別な磁石がついているようだった。  お酒を飲むときは、自慢の長い髪を手で梳《す》きながらグラスを口に運ぶのが得意のポーズ。女の亜希子が見ても色気を感じた。 「で、それナニ人?」  久美は、いつものように髪を手で梳きながらたずねた。 「フランス人です」  亜希子が答える。 「ハーフ?」 「いえ、生粋《きつすい》のパリっ子です」 「じゃ、二人でいるときは何語をしゃべってるのよ。あなた、フランス語できたの」 「いえ、彼が日本語、じょうずなんです」  目の前に置かれた甘口のカクテル——そのグラスをもてあそびながら、亜希子はうつむきかげんに答えた。 「で、日本のどこに住んでいるのよ、そのロベールは」  自分は国際電話のつもりで話していたが、久美は相手が日本にいると思っている。それはそうだろう、この店の公衆電話からでは国際電話はかけられない。 「わりと……遠いところです」  亜希子は返事を濁した。 「ちょっと亜希子、いまの電話で気になる発言が聞こえたんだけど」  バーボンのロックをカラカラ揺すりながら、右隣から松永理沙がたずねた。  とにかく派手で目立つタイプの美人。男好きのしそうな官能的な唇が、濃い目の口紅にふちどられてくっきり浮かび上がっている。大きな胸が自慢で、いつもバストが目立つよう意識的にぴったりした服を着ている。  彼女は営業部に所属していたが、決して事務処理要員ではなく、男性営業マンと同じように外回りをして仕事をとってくる。成績抜群、そこらの男性部員よりもはるかに売上高が勝っている。もちろん、顔とバストが武器である。それゆえに、社内の管理職クラスからも注目の的だった。  ところが亜希子はといえば、二人の先輩とは対照的に男性社員の関心の外という存在でとにかく目立たない。無口。いつもノーメイクで、服装もパッとしない。黙々と仕事をこなし、上司から叱《しか》られもしないかわりに褒《ほ》められもしない。  亜希子が男たちの話題に上るのは、久美や理沙の引き立て役としてからかわれるときだけだった。どういうわけか東港金属の二大美女は、亜希子を連れて飲みにいくことが多かったのだ。 「いま、抱きしめてとか、ワケのわかんないこと電話口で言ってなかった?」  理沙がきく。 「言いました」  赤くなって亜希子が答える。 「つーことはよ、あなた、そのロベールとかいうフランス人と関係ずみってワケ?」 「はい」  嘘《うそ》がむなしい。  うつむくというよりは、うなだれてくる。 「いくつなのよ、彼」 「えーと、えー……二十七歳です」 「なーるほどね、そういうことか」  理沙が、分析するような目で亜希子の横顔を見つめた。 「ようするにさ、亜希子は、日本人の男から愛を求められるのを待っていたらラチが明かないと思ったんでしょう。そこで、ガイジンに走っちゃうパターンね。地味なタイプの子によくあるんだなあ、こういうの。ね、久美」 「そうね」  亜希子を飛び越して、二人の美女が納得の視線を交わした。 「で、ロベールくんとは結婚するつもりなの」 「ええ……いえ」  質問役が久美に変わったが、亜希子の答は揺れた。  どういうふうに答えれば嘘に合理性が出るのだろうか、と迷ったのだ。 「どっちなのよ。イエスなの、ノーなの」 「ノーです」  答えたとたん、胸が痛んだ。  まるで実在の人物を裏切ったように、ロベールに対してごめんなさいと謝りたくなってしまう。 「どうしてノーなの」 「やっぱり私、結婚は日本人としたいと思っていますから」  あははー、とこんどは理沙が大声で笑った。 「何がおかしいんですか」 「ナマイキーって感じだからよ」  理沙は、人差指で亜希子のほっぺたをチョンとつついた。 「生意気、って?」 「遊ぶのはフランス人で、結婚は日本人、みたいに使い分けをするところがよ。そういうのは私や久美が言うセリフ」 「………」 「ロベールくんとうまくいってるのなら、国際結婚すればいいじゃない。亜希子がフランス人と結婚、なんてことになったら、社内が引っくり返る騒ぎになるわ。おもしろいじゃない、そうなったら」  理沙の言葉には、どこか試すような響きがある。フランス人と結婚できるものならしてみなさいよ、というふうに——亜希子はそう思った。  こっちが嘘をついていることが、理沙には見透かされているのではないだろうか、と不安になる。 「亜希子はそんなに結婚にこだわるわけ?」  久美がきいた。  理沙、久美、理沙、久美と、両側から責め立てられる。 「はい」 「焦ってるの」 「少しは」 「どうして」 「私、ことし二十五でそろそろ適齢期も終わりですから」 「適齢期?」  理沙がプッと吹き出す。 「二十五で適齢期が終わるのならば、もう二十七になってる私たちはどうなるのよ。絶望期とでもいうの……あ、マスター、おかわりね」  理沙が空にしたバーボンのグラスをスッと前に出す。  カウンターの向こうのバーテンダーが黙ってうなずく。 「いい? 亜希子。適齢期っていう言葉はね、もう完全に死語なのよ、死語」  久美が、きれいにマニキュアされた左手の上に、形のいいアゴをのせて言った。 「つまり、二十四、五くらいの女の子だと、まだ世間知らずだから、程度の低い男にもうまくだませちゃうわけよ。それに肉体的にもおいしい。とまあ、こういう男の独善的な発想から出た基準なのね。だから、適齢期にこだわるような男と結婚したら、絶対に後悔するわよ」 「でも、私は久美さんや理沙さんとは違いますから」 「どう違うの」 「結婚しないと幸せになれないタイプだと思うんです」 「そんなことないでしょう。亜希子は仕事ができるもの。そのままあと五年も勤めれば、経理の大御所よ。数字に強い女の子は重宝されるから」 「いえ、そんなことはありません」  亜希子はまじめな顔で首を振った。 「仕事ができるから結婚しないとか、会社でたいして期待されていないから結婚をしてしまおうとか、そういう問題ではないんです」 「じゃ、どういう問題なのよ」  理沙がじれる。 「うまく言えませんけれど……早く幸せをつかまえておかないと不安なんです。久美さんや理沙さんのように、選べるほどの幸せが私にはこないでしょうから」 「ちょっと待ってよ、亜希子。すると、あなたにとっては結婚イコール幸せ、ってこと?」 「私の場合はそうです」 「あーらら、短絡的」  理沙がため息をついた。 「いまどきそんな幻想を持っているなんてねえ。たとえばウチの社員と結婚したらどうなると思う? たぶん、プロポーズのときは立派なことは言うわよ。ぼくがしっかり働くから、きみには家庭をしっかり守ってもらいたい、とかね。でも、ひとり暮らしのときでも苦しかったあなたのお給料、二で割ったらいくらになるっていうのよね」 「どんな男でも、最初はおいしい話ばかりするわ」  久美も言う。 「口で言うのはタダですものね。ところがいったん結婚したら最後、男の女中になってしまう危険性は大いにあると思うわ」 「へたすりゃ姑《しゆうとめ》の奴隷って立場も加わるしね」  と、理沙。 「家計が苦しくなると、すぐにカットされるのは妻のおこづかい。娯楽奪われちゃうんだよ、亜希子。好きなアクセサリーも買えない、主婦がディスコなんてとんでもないということになる。とにかく、私とか久美がモテるのも、お金の苦労をしないで遊んでばかりいるからでしょ。だからキラキラ輝いていられるのよ。いまの私たちから遊びをとったら何が残る? つまんない女になっちゃうわよー。そうさせといて、おまえは老けたとか、もう飽きたとかいって浮気するのは男だもんね」 「しかも男のほうは、自分の稼いできたお給料だからって、勝手に使うでしょう。女の子のいるクラブに行ったり、ゴルフに行ったり……。そういったところで、パーッと何万円も使って、そのしわ寄せはぜんぶこっち」 「人間、苦労は買ってまでするな、っていうでしょ」 「私、経済的な苦労はそんなに気になりません。もともと遊びが好きなほうじゃありませんから。二年くらい前までは、こうしたところにお酒を飲みにくることもありませんでしたし」 「あーあ、純なこと」  久美はうんざりというふうに首を振った。 「結婚への幻想も、そこまでいくと重症ね」 「醒《さ》めてるんですね、理沙さんも久美さんも」  久美は笑ったが、すぐ真面目な顔になって言った。 「私に言わせてもらうとね、その逆よ。さっさと結婚を決める人のほうがよっぽど醒めてると思うな。幸せなんてこんな程度でいいかって、適当なところで妥協のラインを引っぱって納得しちゃうわけでしょう。でも、私にはできないわね。もっともっと欲望の追及に貪欲《どんよく》でいたいから」 「適齢期へのこだわりって、そんなにバカみたいなことですか」 「当然」  久美と理沙は同時にうなずいた。 「いま、どうしても結婚してくれって頼む人が出てきても?」 「殺してでも追い払うわね」 「久美に同じ。魅力的な女は結婚しない——これからはそういう時代なのよ」 「でも、理沙さん。たとえば経理の木倉課長みたいにすてきな男性からプロポーズされても……ですか?」  亜希子がきいたとたん、新しいグラスを差し出そうとしたバーテンダーと理沙の手が激しくぶつかり、バーボンが勢いよくカウンターの上にこぼれた。 「あ、失礼しました」  バーテンダーが失敗に顔を赤らめた。 「お洋服にかかりませんでしたか」  理沙はバーテンダーの問いかけは無視して、亜希子をキッと睨《にら》みつけた。 「急に木倉課長の名前なんか出さないでよ、もう」 「どうしたの、理沙。ずいぶんあわてていない?」  久美はそう言うと、少しこわばった笑いを浮かべてトイレに立った。  その二人の反応が、妙に亜希子の印象に残った。      *     *     * 「どうしてあなたは、そういう細かいやりとりについて話してくれなかったんです。ずいぶん重要な情報が含まれているじゃないですか。木倉氏の名前が出たとたん、松永理沙が動揺して酒をこぼす。そういうところをね、早く教えてくれないと困るんですよ」  小林警部は、マドラーでグラスのふちをチンチンと叩《たた》きながら文句を言った。 「でも、緊張してしまって、警察ではとてもそんなことまで」 「そうですよねえ、こうやってお酒を飲みながらリラックスした状況だからこそ、いろいろ思いだすんですよ」  鷲尾警部は自分と小林のために、ウィスキーのウーロン茶割りを作りながら言った。これだとかなり薄く作っても他人にはわからない。醒《さ》めているが酔っているようにも見せかけられる。実際、二人の警部のグラスにはほとんどウィスキーは入っていなかった。 「それで? その先をつづけましょうよ、亜希子さん」 [#改ページ] (きっとそうなんだわ)  ひとりずまいのマンションへ帰る深夜タクシーの中で、亜希子は小さくつぶやいた。 (結婚しない女がいいなんてウソ。久美さんも理沙さんも木倉課長が好きなのよ。それを隠すために、おたがいに牽制球《けんせいきゆう》を投げあってるだけなんだから)  経理課長の木倉浩一は、東港金属の女子社員の間ではスターだった。  百七十八センチ、六十三キロのスリムな体型。ハーフのモデルとまちがえられるような日本人ばなれした容貌《ようぼう》。実家も資産家だとの噂《うわさ》である。  三十六歳で未《いま》だ独身ということから女遊びも激しいとの評判もあったが、見てくれのよさに反してキザなところがひとつもなく、女性にやさしすぎるくらいやさしく、よく気がつく。だからOLたちには大変な人気だった。  女子社員のお昼どきの話題といえば、誰が木倉課長の心を射止めるのか、というテーマが第一位。妻子ある上司と不倫するわけじゃないんだし、と露骨にモーションをかける子もいたが、木倉はそうした声にまったく関心を示さなかった。  が、最近になってとうとう彼も年貢の納め時がきた、と言われるようになった。久美と理沙のそれぞれとデートする姿が、何度も目撃されたからだ。  それと時を同じくして、二人の女性が急に結婚不要論を口にするようになったのだから、亜希子が勘ぐりたくなるのも無理はなかった。 (あーあ)  亜希子はため息をついた。 (会社の席では私がいちばん近い位置にいるのに、やっぱり木倉課長はいちばん遠い人なんだ……)  流れてゆく夜更けの街をながめながら、亜希子は孤独感をじっとかみしめた。  いつからこんな性格になったんだろう。田舎の高校を出たあと、無理をして東京の短大に進んだのがいけなかったのかもしれない。田舎町でも内気なほうだった亜希子は、水のあわない都会で、完全に置き去りにされてしまっていた。  タクシーの窓を鏡がわりにのぞきこむ。 (どうしていつもそんなにおどおどしているの?)  亜希子は、自分の顔に向かってたずねた。 (亜希子ったら、幸せになりたいくせに、幸せになろうと努力しないバチが当たってるんじゃないの?) 『人間ぎらい』というのは、もしかすると『自分がきらい』なのかもしれない、と亜希子はときどき考えてみたりする。  自分に自信がなくて、自分がイヤで、そんな自分を人前にさらけ出したくないから、人を避けるようになる。けっきょく、そういう心理を突きつめていくと、他人がきらいなのではなくて、自分がきらいなのだという結論に達する。 (ほんとは、私だって好きな人と旅をしたい)  いままで認めようとしなかった深層心理を、亜希子は自分に認めさせようとした。 (パリにだって二人で行きたかった。ロベール・ドローネーの絵は、好きな人と肩寄せあって眺めたかった)  それなのに亜希子は、自分に『人間ぎらい』というレッテルを貼《は》り、すべてを他人のせいにしようとした。  だけど、そのレッテルが真実でない証拠に、亜希子は人恋しさのあまり、とうとう架空の恋人を作ってしまった。それがロベール。もちろんその名前は、二十世紀初頭に活躍したキュビスム派の画家からとったものだ。  そして、自分にはパリにすてきな恋人がいるのだと……ロベールという名のハンサムなフランス青年に愛されているのだという設定を、むりやり頭の中にインプットした。  そしてある夜、この二人は結ばれたのだ。めくるめく甘美な陶酔の中で——  けれども実際には、亜希子の身体はまだ男を知らない。  窓ガラスに映った自分を、亜希子が叱《しか》る。 (うそつき。最低のうそつき!)  そのとき、急にタクシーが強めにブレーキをかけた。  つんのめる身体を支えようと反射的に手を伸ばしたとき、前を行く車のテールランプが視野に飛び込んできた。  その赤く灯っていた光が、突然チカチカッと点滅する。先行車もブレーキを踏んだのだろう。  だが、亜希子の脳裏にはまったく別の連想が走った。胸が苦しくなった。だめ、赤い光のことは思い出したくない。だめなのよ、赤い光は……。  また、前の車のテールランプが点滅した。赤い点滅。 「やめて!」  おもわず声がでた。  びっくりしたタクシーの運転手と、ルームミラーの中で目が合った。  いぶかしげな顔をする運転手に料金を払ってマンションに駆け込み、六階の自分の部屋にたどり着くころには、亜希子の動悸《どうき》はかなり激しくなっていた。  ドアを開けると、真っ暗な部屋の隅で小さな赤い光がチカチカと点滅していた。  玄関の明かりもつけず、靴を脱ぎ捨てると亜希子はそれにかけよった。  ボタンを押す。ピッという音がして赤い光が消える。  闇《やみ》——  別のボタンを押す。テープが巻き取られる。すぐに止まる。ボタンを押す。またピッという音がする。 ≪……あ、ロベール? うん、そうなの。いま六本木の『カルロス』、いつものバーよ。みんなですっかり盛り上がっちゃって≫  虚しかった。自分の吹き込んだ留守番電話を、暗い部屋でたったひとり聞いている姿は、どう考えても哀しすぎる。 ≪……それじゃあね。あ、もしよかったら、あとで家のほうに電話ちょうだいね。もっとゆっくりロベールとお話ししたいから。じゃ、おやすみなさい、ボンニュイ≫  ピーッという音がして会話が終わった。  すぐにそのあともう一回ピーッと鳴って、もうほかにメッセージが入っていないことを知らせ、テープは止まった。 (きょうも誰からも電話がかかってこなかった。自分自身のほかには)  亜希子には恋人もいなければ、相談ごとのできる友だちもいなかった。ひとり暮らしのマンションに電話をくれるのは、実家の母親くらいなものだった。  最初に持っていた電話機はずいぶん古い型で、留守録機能のないものだった。もしかしたら、会社へ出ている間にたくさん電話がかかっているのかもしれないと思って、三年ほど前に留守番電話付きの新品に取り替えた。  だが、せっかくの買い替えもムダだった。夜帰ってくると、いつも真っ暗な部屋に赤い光がポツンとついているだけ。その状態はずっと変わることがなかった。  ひとつでも伝言が吹き込まれていれば、機械は赤い光を点滅させてそのことを知らせる。しかし、どこからも電話が入ってこなければ、赤い光はずっとついたままだ。  点灯したままの赤い光——それは亜希子の孤独の象徴だった。  亜希子が独り芝居の留守TELメッセージを吹き込むようになったのは、留守番電話に買い替えてから三カ月ほどたったころだ。  はじめは亜希子から亜希子へのメッセージという形をとった。それを一日に何本も入れるのだ。 ≪もしもし、アッキー、元気ですかあ。私、亜希ちゃんでーす。いまねー、会社のお昼休みなの。きょうは久美さんも理沙さんも常務に誘われちゃって、天ぷらかなんかをゴチになりに行きました。そんでもって亜希ちゃんはひとりでーす。えーんえーん、なにを食べにいこうかなー≫  ピー。 ≪会議の書類をどっさり両手にかかえてエレベーターに乗ったら、木倉さんがボタンを押してくれました。うれしいよーん。で、販売機の脇《わき》の電話からかけてまーす。木倉さんってすごいすてきなの。バイバーイ≫  ピー。  まだこのころは木倉は課長に昇進していなかった。そして亜希子は、留守TELには木倉への思いを素直に告白していた。  そうかとおもえば、こんなのもあった。 ≪あきこですう。おなかいたいの。セイリかなー。えーっと、どうでもいいけど淋《さび》しいです。どうしてなんだろうね。晩ごはん、外で食べていくね、おなかいたいけど≫  ピー。  最後は涙声になっていた。  赤い光の点滅を見たいがための独り芝居。  家に帰り、留守TELの赤い光がたしかに点滅しているのを見ると、一瞬はホッとする。だが、吹き込まれた自分自身の声を再生しているうちに、決まって最後には自分が哀れで哀れでならなくなった。  そんな状態が二年以上もつづいた。  そして最近になって、亜希子は別のアイデアを考え出した。  女子社員どうしで集まれば必ず出るのが、のろけ話、失恋、悲恋、不倫、三角関係、セックスの話題。そこでも亜希子は完全に仲間はずれだった。恋をしたことがないから失恋話ひとつできないのだ。周りからも、なんであんたが話の輪に加わってるの、という目で見られる。まず、その孤独感から直そう、と亜希子は思った。  架空の恋人に対して、みんなの前で電話をかけるのだ。こんどは留守番電話を受ける行為ではなく、かける行為に意味があった。彼女にも恋人がいるとわかれば、みんなの見る目も違ってくるかもしれない。  すでに亜希子には、パリに行ったときに『出会った』ロベールという名の恋人がいた。一年数カ月に及ぶ『交際』の間に、ロベールというフランス人青年は、亜希子の心の中でかなり具体的な像を結んでいた。  だからロベールへの電話は、はたで聞いていても、まさか留守番電話に吹き込んでいるとは思えないようなリアリティがあった。 ≪ロベール、このあいだパリから送ってくれたセーターありがとう。やっぱりファッションの街だなあ、って思った。私にはもったいないくらいすてきなセーターなんだもん。感激しちゃった。あ、それからこないだロベールが東京にきたときの写真、焼き増しできたんだ。二人で写ってる写真、会社でみんなに見せちゃおうかなあ。……でも、やーめた。だって、ロベールがカッコよすぎるから、嫉妬《しつと》されちゃうよねー≫  ピー。 ≪ロベール、私をかわいがってくれてる二人の先輩には、こんど会ってもらおうかなあ。久美さんと理沙さんていうの。二人ともすっごい美人なのよー。紹介しても浮気しないでね、なーんて。……え、恥ずかしいの? 会うのが? いいじゃない、照れなくても。だって私、自慢したいんだもん。……だめえ? そうかあ、じゃ、しょうがないけど≫  ピー。  久美たちから『カルロス』に誘われたとき、亜希子は必ずカウンター脇《わき》のピンク電話からロベールにラブコールをかけるようにした。  何度かそれを繰り返すうちに、最初は無関心でいた久美たちも、どうやら亜希子に恋人ができたらしいと信じてくれるようになった。  亜希子はなんとなく自分というものに自信がついてきた気がした。  彼女は、巴里《パリ》の恋人に感謝をした。 [#改ページ]  留守番電話に異変が起きたのは、それから二週間ほどたった夜のことだ。  その日も亜希子は『カルロス』で、久美と理沙にはさまれてカウンターに座っていた。  このごろでは、久美と理沙にとって亜希子は緩衝材のような存在になっていた。木倉をめぐる二人のライバル関係は、しだいに激しさを増していたのだ。 「亜希子みたいに結婚に夢とロマンを抱くのもあんがい悪くないかもね」  理沙がいつになくしんみりとつぶやいた。 「なによ、どういう風のふきまわし?」  久美は理沙の横顔にタバコの煙を吹きかける。 「男ができちゃってさ」 「いつものことでしょ」 「これがいい男なんだ。かっこよくて優しくて」 「わざとらしくない? その言い方。木倉課長とつきあってることを言いたいんだったらストレートにいえば」  久美は、まとめていた髪の毛をバラリとほどき、首を大きく振って整えた。  アップにしていた時の理知的な美しさから、一転して妖艶《ようえん》な香気が漂った。  セックスアピールでもあなたには負けないのよ、という理沙への挑戦にも受け取れるポーズだった。 「私だって、何度も課長とはデートしているんだし」 「知ってるわよ。でもさあ」  理沙はカウンターに大きな胸を押しつけ、両肘《りようひじ》を広げて低い位置から久美の表情をのぞき込んだ。 「私、寝ちゃったんだよ」 「そう、……よかったわね」 「あれ、平気なの?」 「ええ、平気よ」 「どうして」 「だって私も同じことしたから」 「誰と」 「だから、あなたと同じ人とよ」 「……あ……そ」 「やさしかったでしょう、木倉さん」 「へただったけどね、どヘタ。ちっともよくなかったよ」  すごい会話が目の前を飛び交うので、亜希子はどぎまぎした。  木倉課長をめぐる久美と理沙の意地の張り合いは知っていたが、当事者二人の口から大胆な発言を聞くと、もうまるでこの人たちとは生きてる世界が違う、と思った。  亜希子だって、ほんとうは木倉課長に抱かれてみたいとは思っている。でも、それは完全に架空の世界の話。けれども久美と理沙には、それが現実となっている。 (やっぱりこの二人はレベルが違う)  亜希子は心の中で吐息をつきながら、ぼんやりと前を見た。  カウンターの向こうで、いつものバーテンダーがシェイカーを振っていた。  このバーテンダーは、二人のやりとりをいったい何と思って聞いているだろうかと、気の弱い亜希子はそんなことにまで気を回していた。 「お客様、何かおかわりを……」  見つめる亜希子の視線に気づいたバーテンダーが、気を利かせてたずねてきた。ちょうど亜希子は、やっとのことでジンライムを飲み干したところだった。 「あ、あの、あの」  あわてると亜希子はどもる癖がある。 「カンパリのグレープフルーツジュース割りを」 「ほう……」  バーテンダーが意外そうな声をあげた。 「あの、なかったらいいです。ほかのでも、なんでも。……すみません」  亜希子は頭を下げた。 「いえいえ、お安い御用ですが……。ただ、カンパリソーダをご注文されるお客様はよくいらっしゃいますが、グレープフルーツジュースで割るというリクエストはめずらしかったものですから」  亜希子自身にも、なぜそんなオーダーが自分の口をついて出たのかわからなかった。なにしろ、そんなものはいままで飲んだことすらないのだから。 「それで? 結婚する気になったの、木倉さんと」  バーテンダーと亜希子とのやりとりにはまったく無関心で、久美は理沙に話の先を促した。 「べつに。さっきのは出まかせ、ただの冗談よ」 「冗談にしては目が本気だったけど」  亜希子は、堅くなって二人の間で身を縮めていた。 「どうぞ」  バーテンダーが亜希子の前にグラスをツッと差し出した。  カンパリの本来の持つ透明な赤が、グレープフルーツジュースのために薔薇《ばら》色に変わっている。  それを見た瞬間、亜希子は思い出した。 「亜希ちゃんもアルコールはあまりいけないのか。ぼくも酒だけは苦手でねえ」  社員食堂で偶然隣り合わせになった木倉課長が、なにかの拍子に話しかけてきた。昨日の昼のことだ。 「ただ、女性と飲みに行ったときに、コーラをくださいというんじゃ格好つかないからね」  そんなときにはカンパリのグレープフルーツジュース割りを頼むのだ、と木倉は言っていた。その会話が頭に残っていたのだ。 「カンパリソーダよりずっと口当たりがマイルドだし、それにきれいな薔薇色をしているのがいい。薔薇の花言葉は『愛』なんだ」  たぶん木倉は、久美や理沙とデートするときは、その飲み物を注文しているのだろう。そして同じように花言葉の蘊蓄《うんちく》を傾けたかもしれない。  亜希子は虚しさといっしょに、薔薇色の液体を一気に飲み干した。  深夜、マンションに帰ったころには、亜希子は相当酔っていた。  だから最初のうちは、暗い部屋の片隅で赤い光が点滅しているのを見ても、ボーッとしてアルコールくさいため息をついているだけだった。  しばらくしてから、少し頭が働きだした。 (あ、留守番電話にメッセージが入っているわ)  きょうは『カルロス』でロベールへのニセ電話をかけるきっかけがなかったから、あの点滅は自分で入れたメッセージではない。  まっさきに亜希子の脳裏に浮かんだのは木倉の横顔だった。  が、それはあくまで願望で、現実にはありえないことだとわかっていた。  停止ボタンを押してからテープを巻き戻す。すぐに巻き上がる。たぶんメッセージは一人分、それも短いものだ。 (きっとお母さんからだわ)  期待しすぎないよう、亜希子は無意識に予防線を張っていた。私に電話をかけてきてくれる人なんていないんだ、絶対にいないんだから。  再生ボタンを押す。  ピー。 ≪えー≫  最初の『えー』で驚いた。男の声だ。  亜希子の留守番電話に男の声が入っていたのは、これがはじめてだった。  酔いがいっぺんに吹き飛んだ。亜希子は闇《やみ》の中で目を丸くして次の言葉を待った。 ≪あさっての日曜日、三時半に新宿の紀伊国屋書店の二階エレベーターのところで待ってる。じゃ≫  それで切れた。  ピー、ピー。伝言は以上。 (だれ? いったい誰なの?)  あわて者がよその女の子と間違えてメッセージを入れたという可能性は、まずない。留守番電話は、伝言の録音の前にこちらがちゃんと名乗っているのだ。  はい、山添です。申し訳ありませんがこれは留守番電話です。ピーッという信号音のあとに、あなたのお名前とご用件を……。  かけ間違いなら、こちらが名乗った時点で気づくのがふつうだろう。いたずら電話の類でもなさそうだ。  亜希子はもう一度テープを再生してみた。 ≪えー、あさっての日曜日、三時半に新宿の紀伊国屋書店の二階エレベーターのところで待ってる。じゃ≫  行こうか。それともやめようか——  迷った末に、亜希子は結論を出した。      *     *     * 「どう思う」  話の途中で亜希子がトイレに立ったすきに、小林警部は鷲尾にたずねた。 「亜希子はふっ切れたんだろうな。よくしゃべってくれている。ここまで自分の弱みや恥をさらけ出すのは、なかなかできるもんじゃない」 「ぜんぶ作り話だからこれだけスラスラ言えるのかもしれない」 「ちがうね」  鷲尾は即座に否定した。 「あの子、なぜトイレに行ったかわかるか」 「そりゃ、もよおしたからだろう。あるいは気持ち悪くなって吐いてるのかもしれん。酒は強くないと言っていたからな」 「泣きに行ったんだよ」 「え?」 「おまえにはわからんだろうなあ」  鷲尾は悲しそうに小林を見ると、ゆっくりと首を振った。 「きっと、このあとの告白が山場なんだ。もっともっとつらいところなんだ」 「しかしな、鷲尾……」 「しっ、帰ってきたぞ。あの子の目が濡《ぬ》れていても気がつかないふりをしてやれよ」 [#改ページ]  指定の時刻十五分も前に、亜希子は指定の場所に着いていた。  日曜日の新宿、午後三時十五分。天候、晴れ。  この大型書店は人の波であふれ返っていた。とくにエレベーターの上と下は待ち合わせの場所に指定する人が多く、常時二、三十人を越す人間がたまっている。  ウォークマンを聴いている学生。休日出勤なのか背広姿のサラリーマン。煙草をふかしているミュージシャン風の男。中華料理屋の出前も行き来する。あるいは、じっと目を閉じて壁にもたれかかっている白髪の老人  誰があの声の主であってもおかしくない。  だが、こちらには相手を見極める手がかりはない。男という以外は、確実なことはなにひとつないのだ。透明人間に一方的に観察されているようで、亜希子は急に落ち着かなくなった。  ふとウィンドーに映る自分の姿を見る。  いやだ、と思った。  ガラスのなかの亜希子は、真っ赤な口紅をさしていた。マニキュアも赤。  ワンピースだけは、いつも会社に着ていく地味なものだったので、よけいに赤が浮いてみえた。 (ふだんはお化粧らしいお化粧はしたこともないのに、どういうつもりなの)  あさましい期待がにじみでているようで、そんな自分に嫌悪を感じた。  ふと時計を見ると、指定の時刻を五分すぎていた。あわててあたりを見回す。  が、亜希子に視線を注いでいる者は誰もいない。  三時四十分。依然としてどこからも声はかからない。  三時四十五分。さっきまでは周りの男すべてが留守番電話の主にみえたのに、いまでは誰もが自分とは無関係に思えてくる。  ごめんね、待った? ううん、私もいまきたばかり。そんな会話がそこここで飛び交い、カップルが楽しそうに去っていく。  四時。周りの人間はすべて入れ替わって、同じ場所に立ち続けているのは亜希子ひとり。  そして、四時十五分。かっきり一時間立ちつくしたところであきらめた。  ウィンドーに映る赤い唇の自分を肩越しにふり返り、亜希子は言葉を投げつけた。 「ばか」  その日、深夜二時に亜希子の部屋の電話ベルが鳴った。  留守TELモードにして寝たので、四回コール音がしたあと、テープが回りはじめた。  亜希子の応答テープが回っているあいだは何も聞こえないが、相手がピーという信号音につづいてしゃべりだすと、その声は受話器をとらなくてもスピーカーから流れてくる。 ガサガサという雑音につづいて、息を吸い込む音。 ≪えー≫  闇《やみ》の中で、亜希子はパッと目を開けた。  独特のかすれ声。あの男だ! ≪約束の場所に約束の時間にきてくれてありがとう。赤い口紅がよく似合っていたよ。とってもきれいだった≫  亜希子はシーツを唇のところまで引き上げ、耳たぶを赤くした。異性から外見をほめられたのははじめてだった。 ≪……こんどは明日、月曜の夜六時。渋谷ハチ公の前で。じゃあ≫  翌日、終業時刻と同時に会社を飛び出した亜希子は、途中のトイレで口紅をさし、地下鉄で渋谷へ向かった。  ハチ公前広場の人混みは紀伊国屋の比ではない。亜希子は自分に注目している男がいないか、目を凝らして探した。誰かに肩をたたかれるのをずっと待っていた。だが、きょうも電話の主は現れなかった。  しかし、がっかりはしなかった。きっと相手はどこかで私を見てくれている。その確信が亜希子を満足させていた。  翌日以降も留守番電話への伝言はとぎれることがなかった。夜中でなく、仕事で不在のときを狙《ねら》ってくるのは、たぶん彼女が直接電話に出るのを警戒しているのだろう。  夜、自宅に戻ると、必ず闇の中で赤いランプが点滅していた。  はじめは薄気味悪く感じた謎《なぞ》の留守番TELメッセージだったが、このごろではテープを聞くのが亜希子のひそかな楽しみになっていた。  それからも、彼女は見えない男に命じられるままに、街角へ足を運びつづけた。  休日は昼下りの代々木公園や東京ドーム。平日の夜は決まって六時の指定で、青山のカフェバー、赤坂のホテル、副都心のスカイラウンジなど、約二週間にわたって亜希子はさまざまなデートスポットを引きずり回された。  当の男が姿を見せたことは一度もない。  だが、姿こそ確認できないが、男は必ず現場にいて亜希子を見ていた。帰宅すると、決まって男からその日の彼女の服装をほめる伝言が入っていたからだ。  この二週間あまりで、亜希子はふだん縁のなかった恋人たちの集う場所に毎日のように足を運んだ。なにごとにも臆病《おくびよう》で引っ込み思案だった彼女に、変化が現れてきた。見えない男からほめられていくうちに、おもいきって大胆な洋服を買い、女らしいメイクも心がけるようになった。あれだけ服装を毎回ほめられれば、ファッションにも気をつかわざるをえなくなる。  いつのまにか電話の主に対する恐怖感は消え失せ、亜希子は、一種の憧《あこが》れに近い感情を抱くようになっていた。  そしてそれと呼応して、これまで少しずつだが亜希子を積極的な方向へ変えてきてくれた『巴里の恋人』は、いまやすっかり忘れ去られた存在になってしまった。 「このごろラブコールはどうしちゃったの」  いつものバーで久美にきかれた。 「ええ、ちょっと」 「ふられちゃったんでしょ」  と、理沙。 「いえ、そんなんじゃないです」  亜希子は余裕の笑みを浮かべた。 「でもあなた、なんだか変わったね」  久美はしげしげと眺めて言った。 「そうですか」 「そうよ、きれいになったわよ、ねえ理沙」 「というより、ケバくなったね」  理沙は後輩の横顔にジロッと一瞥《いちべつ》をくれた。 「ロベールだかなんだか知らないけど、フランス人の男に悪い方向に教育されているんじゃないの」 「それよりも、木倉課長があなたのことほめてたわ。すごく魅力的になったって」 「え、ほんとですか」  久美の言葉に、亜希子は顔を輝かせた。 「同じ課にいるのに、私にはいつもと変わらない感じでしたけれど」 「態度は変えなくても、評価は変わってるわよ。うそだと思ったら、木倉さんに仕事じゃないことで何か話しかけてごらんなさい。そのときに、きっとわかるから」 「そうですか」  亜希子はポーッとなったが、理沙は面白くなさそうに言った。 「ま、変わったといわれているうちが花よ」  だが、何を言われても平気だった。  留守番電話の男が現れて以来、亜希子は不思議な自信に満ちあふれていた。だから彼女は、その男がいったい誰で、何の目的で電話をかけつづけているのかという、肝心なポイントにまるで目を向けなくなってしまっていた。  亜希子は男からのメッセージを一切消去せず、夜毎それを再生しては、木倉のイメージとダブらせながら空想にふけるのだった。  ひさしぶりに亜希子の在宅時に電話が鳴った。日曜日の夜中、二時半すぎだった。  電話を留守TELモードにして、ベッドでうとうとしているところだったが、ベルと同時にすぐに飛び起きた。  彼女はこのチャンスを待っていた。家にいるときに男が電話をかけてきたら、彼のメッセージがはじまるとすぐに受話器をとってしまう。そうすると留守TELモードは解除されて、ふつうに相手と話ができる。そこで一気にたたみかけて直接デートに持ちこむのだ。  自分の声で応答メッセージがはじまったときから、亜希子は受話器に手をかけていた。  やがて亜希子の声が終わり、合図の信号音が鳴る。録音テープが回り出す。 ≪えー≫  きた。もうすっかり聞き慣れた例の声だ。  だが—— ≪すぐに来てほしい。西新宿のロイヤルトンホテルに≫  予想もしていなかった出だしに、亜希子は受話器にかけた手をそのままにして聴き入った。 ≪きみの名前、山添で部屋をとっている。1402号室。いいね、1402号室だ≫  ホテルのバーを指定されたことはあったが、部屋番号を告げられたのははじめてだ。とたんに亜希子はあがってしまった。 「だ、だれ、あなた誰なの、ねえ誰」  受話器を取り上げたとたん、自分の口が勝手に回りだした。 「教えてください、誰なんですか、こ、こ、こまるんです、ホテルに誘うなんて、そういうことは」  身体がスーッと軽くなる感じで、何を言っているのか自分でもわからない。  一瞬、相手もひるんだ様子が伝わってきた。たがいに直接話すのははじめてなのだ。 ≪ガマンできないんだ≫  それだけ言うと、電話は切れた。  その先どんな行動をとったか、あとになっても亜希子はほとんど思い返せなかった。  着ている服をぜんぶ脱ぐとバスルームに飛び込み、熱いシャワーを浴びて全身をすみずみまでていねいに洗った。  たった一本だけ持っていたとっておきのシャネルの香水を、すでに感じはじめている部分につけ、地味な白い下着ばかりの中から新品の一枚を選んではいた。 ≪ガマンできないんだ/ガマンできないんだ/ガマンできないんだ≫  男の放った短い言葉が、頭の中で反響する。  爪《つめ》を赤く染める。  唇を赤く塗る。  胸元が深く開いたワンピースをまとう。  ハッと我に返ったときには、彼女を乗せたタクシーは西新宿の高層ホテルの前に横づけになっていた。深夜三時半少し前。  二十五歳でまだ処女、それどころか、じつはキスの経験ひとつないというコンプレックス。絶対に認めたくない劣等感。認めたくないからこそ、自分をここまで駆り立てた感情を、亜希子はつきつめて分析したくなかった。  男が誰なのか、なんのために彼女をこんな時間に呼び寄せるのか。そんなことは、もうどうでもよかった。 (たぶん一時間後には、男の胸に抱かれて、私、べつの女に生まれ変わっているんだわ)  けっきょく、自分の妄想が作り上げた恋人ロベールに寄り掛かっていたのでは何も人生は変わらない——そんな当たり前のことに、亜希子はようやく気づいた。  それよりも、たとえ得体が知れなくても生身の男がほしかった。亜希子をほんとうの女にしてくれるのは、やはり実在の人物以外にはありえなかった。 「おそれいります、お客様。どちらへ」  夜勤のフロント係がたずねてくる。  だが、亜希子はいつもの亜希子ではない。あわてず答える。 「山添です、1402号室の」  しんと静まり返ったエレベーターホールへ急ぐ。  十四階。廊下は濃いブルーの照明に沈んでいる。どちらかというとラブホテル風の照明だ。踏みしめる絨毯《じゆうたん》は毛足が長く、靴音を完全に吸収する。  1414、1412、1410。  亜希子は廊下左側の偶数のルームナンバーをたどっていった。  1408号室から悩ましい声が漏れてきて、彼女は熱くなった。  1406、1404……。  1402号室のところで廊下に一条の明かりが流れ出していた。  扉が少しだけ開いている。  いよいよ男と対面するのかと思うと、急に胸が高鳴ってきた。でも、もうあとには引き返せない。  亜希子は軽くドアを三回ノックした。  返事はない。  相手の名前を知らないから、声のかけようがなかった。  しかたなく、亜希子はそっと扉を開いた——  小さなツインの部屋だった。  片方のベッドは使われた跡がなく、もう一方に男が横になっていた。裸の腕がシーツから出ている。  入口と反対側に身体を向けて寝ているので、彼女からはその顔は見えない。  ナイトテーブルの上に置かれた飲み物に亜希子の目が行った。  薔薇《ばら》色の液体に満たされたグラス。どこかで見たような色あいの飲み物。 (カンパリのグレープフルーツジュース割り!)  亜希子の胸が騒ぎ出した。  木倉課長! 電話の男は木倉だったのか。  信じられない幸福が現実になった。亜希子はクラクラとめまいをおぼえた。  あの久美の美貌《びぼう》と財力、理沙のセックスアピールに、私は勝つことができたのか。 「課長さん……ほんとに課長さんなんですか? そうなんですね」  しばらくその場に立ちつくしていた亜希子は、職場での呼び方をそっと口にすると、ベッドの反対側へ回り込み、男の顔をのぞき込んだ。 「……!」  絶叫が亜希子の口からほとばしった。  男の顔はまぎれもなく木倉だった。  白目をむき、完全に息絶えていることをのぞけば、それはたしかに亜希子の見慣れた木倉浩一の顔だった……。 [#改ページ] 「それでね、山添さん。前にもうかがいましたけれど、朝の四時半に一一〇番するまで、あなた何でその場に一時間もボーッとしていたんです。そこが解せないんですよ」  小林警部がタバコをはさんだ手でアゴを撫《な》でながらたずねた。 「私、一時間もたっていたなんてぜんぜん気がつきませんでした。とにかく木倉課長がそこで死んでいるとわかっただけで、頭の中が真っ白になってしまって……」 「すぐにフロントに連絡するなりしてくれれば、まだアリバイは証明しやすかった」  小林は苦い顔で言った。 「そうしてくれていれば、自殺という可能性も大きくなっていたかもしれない。いいですか、あなたを自宅からホテルへ運んだタクシー運転手も見つかっているし、三時半にやってきたあなたに声をかけたフロント係の証言もある。だから問題は、三時半から四時半の間なんですよ。この一時間にあなたは何をしていたか、なんだ」 「そんなこと言われても……」  亜希子は唇を噛《か》んだ。 「山添さん」  小林がたたみかける。 「あの部屋のバスルームの排水口からあなたの毛髪が何本か見つかっているんですよ、木倉氏の毛髪といっしょにね。これ、どういうふうに説明してくれるんです」 「………」 「ほんとはあなた、ホテルの部屋で彼とシャワーを浴びたんでしょう。なぜシャワーを浴びたか——私、きょうは酔っ払っちゃったから、言っちゃいますよ——つまり、あなたが木倉氏と、するべきことをしたからなんだ。あこがれの人とついに結ばれた、1402号室で。  ね? どうです。いや、気に障ったらごめんなさいよ。私、酔ってますから。なんせ、この鷲尾が、飲みながら取り調べをしようなんて無茶苦茶いうから。ま、こういう場所でのアレは非公式ですんでね、あなたもどんどん反論してください。おたがいブワーッと言いたいこと言い合いましょうや」 「してませんといったら、してません!」 「でも、婦警が性交渉の有無について身体検査を要求したとき、あなた拒否しましたね。まあ、あの段階では拒否されればそれ以上は突っ込めない。ですが……」 「それより亜希子さん」  鷲尾が小林の質問を遮った。 「実際にロイヤルトンホテルに行くまでは、留守番電話の男が木倉氏だとは、まるで疑ってもみなかったんですか」 「そうだったらいいな、とは思いましたが、まさか、ほんとうに本人だとは」 「事件直後の事情聴取であなたが留守番電話の件をおっしゃったから、こちらはすぐに部屋に残っていた伝言テープを押収させてもらいました。それをあなたが改めて聞き返してみると、絶対に木倉さんの声だとおっしゃる」 「はい、多少声を作っている感じはありますけれど、やはり本人に間違いはありません」 「だけどねえ、山添さん」  また小林が口をはさむ。 「それをあなたの会社のいろいろな人に聴いてもらいましたが、どなたも木倉経理課長の声とはとても思えないと言うんですよ」 「あのテープを会社の人に聞かせたんですか。ひどい!」 「だって、重要な証拠品ですからね。木倉氏と恋愛関係にあった五十嵐久美さんと松永理沙さんにも聴いてもらいました。しかし、彼女たちも口をそろえて、これは木倉課長の声ではないと言うんですな」  小林は亜希子の怒りに気づいていなかった。 「あの人たちにわかるわけがありません!」  亜希子は大声を出した。 「木倉さんのことは私がいちばんよく知っているんです!」  その剣幕に、鷲尾と小林は顔を見合わせた。 「どうして警察はテープを科学的に調べないんですか。そうすれば私が正しいとはっきりするはずです」 「声紋分析のことですか」  鷲尾は困った顔をした。 「我々もそれをやりたいんですが、比較すべき木倉氏の声がどこにも残っていないんですよ」 「………」 「山添さん、いいかい」  小林が上半身を前後に大きく揺らしながら、急にぞんざいな言葉を投げつけた。 「あなた、自分が犯人じゃないとしたら、誰がやったっていうわけよ。それとも自殺だと言いたいのかね」 「犯人の見当はついています。でも、言いたくありません」 「言わなくたってわかっているよ。五十嵐久美か松永理沙だというんだろ。だけど彼女たちには事件当夜の完璧《かんぺき》なアリバイがあるんだよ。ないのはあなただけなの。東港金属は自社のメッキ工場で青酸カリを使用するから、犯行に使われた毒物を入手するのはたやすいことかもしれない。そういう意味では社員のほとんどが取り調べの対象になるんだがね。でも最終的に引っかかってくるのは山添さん、あなただけなんだなあ」 「………」 「亜希子さん」  鷲尾が重い沈黙を救うように口を開いた。 「カウンター席が空いたからちょっと移りませんか」  鷲尾の提案で三人はカウンターに移動した。まだ十時を回ったところだったが、一時的に客足がひいて、店内は彼らだけになった。  鷲尾はバーテンダーが新しいコースターを置くのを見ながら、ゆっくりとした口調で話しはじめた。 「どうしてもわからないことがあるんです。そりゃ木倉さんは上司だから、あなたの自宅の電話番号を知ってて当然です。でも、なぜ姿を現わさない謎《なぞ》の留守番電話男として、あなたをいろいろな場所へ引っぱり回したんでしょうね。いえ、わかりますよ。いきなりホテルに誘ったら警戒心を抱くだろうから、徐々に期待感を募らせるような戦略に出たのだろうと。しかし、その前提として二つのことが成立しなければならない。一つは、単純なことですが、木倉さんにあなたを抱きたいという欲望があったこと。もう一つは、彼があなたの留守番電話に対する屈折した心理を知っていた、ということです。しかし、失礼ながら第一の前提は唐突すぎる気がします」 「いいえ、木倉課長は私を愛してくれていたんです!」 「まあまあ」  鷲尾は興奮する亜希子を手で遮った。 「それから第二の前提が成立するには、あなたが『架空の恋人に留守番電話をかける女』であることがバレていなければならない。そうですね」 「はい」  興奮を鎮めて、亜希子はうなずいた。 「木倉課長の前で、独り芝居のラブコールをかけたことがありますか」 「いいえ、木倉課長の前ではありません。かけるのは、必ずこのバーの公衆電話からです」 「それはどうして」 「ここに座って飲んでいる久美さんや理沙さんに聞かせるのが目的でしたから」  亜希子が指さすカウンターの端に、ピンク電話があった。 「彼女たちがあなたの電話はニセモノであると勘づいていた可能性は」 「ないと思います。ダイヤルを回すところは見られていないし、受話器を耳でピッタリ押さえていましたから、相手の話し声がしていないとはわからなかったはずです」 「つまり、いまでもあなたの独り芝居は誰にもバレていないと……」 「信じています」 「じゃあ、木倉さんもあなたの秘密を知りようがないですねえ」 「………」  亜希子は黙った。  いまの鷲尾の問いかけを肯定すれば、木倉が亜希子を愛していたことを否定することになる。 「こうやって考えてきますとね」  鷲尾は自分のグラスを持ち上げ、それを照明に透かしてみるしぐさをして言った。 「あなたの話が事実だとしても矛盾点がいっぱい出てくる。しかし、私は決してあなたが嘘《うそ》をついているとは思わない」  鷲尾はしっかりと亜希子と目を合わせた。 「おつらいのに、ほんとうによく話してくださいました」 「いえ」  亜希子は鷲尾の強い視線を受け止めきれず、小さな目をカウンターに落とした。 「ご協力していただいたお礼に、と言ってはなんですが、一つだけ大事なことを教えてさしあげましょう。現場のバスルームからあなたの頭髪が見つかったといいましたね。だが、じつはあなた以外の女性の毛髪も発見されているんです」 「おい!」  小林警部がびっくりした。 「そんな話は聞いてないぞ」 「そのことに関してはこれからじっくり調べていきますがね。とにかく絶望的になってはいけませんよ」 「はい」 「警察の取り調べを受けるのは、そりゃあつらいことだ。それが世間にバレると後ろ指もさされるでしょう。味方は誰もいなくて、ほんとうにひとりぼっちになった気分になるでしょう。でもね、亜希子さん、あなたも今回の事件に巻き込まれたことで、自分自身をずいぶん厳しく見つめたはずです。強いところも、弱いところもね」  亜希子は涙ぐんでうなずいた。その肩を鷲尾は軽くたたいた。 「結果が出るまでがんばりましょう。いいですね」  亜希子はさらに大きくうなずいた。その拍子にカウンターにポタリと涙が落ちた。 「マスター、お勘定だ」  鷲尾はスツールから立ち上がった。  亜希子の目に大きく見えていたこの警部が、スツールから降りたとたんに、人の良い豆タンクおじさんに変わった。 「この店、明日の日曜日は休みかね」  バーテンダーを見上げてたずねる。 「はい、さようでございますが」 「じゃあ、月曜日にまた来よう。気にいったよ」  領収書も求めずに財布をポケットにもどすと、鷲尾は亜希子をエスコートして外に出た。 [#改ページ] 「鷲尾、ぼくはこんなやり方にはガマンできない。捜査の常道を踏みはずして何が得られるというんだ」  警視庁に戻った小林は怒りを爆発させた。 「所轄署の人間をはずして、突然、担当外のおまえとペアを組まされる。おまえのやりくちときたら素人同然。それでもたがいに相手の手法には口をはさむなという」  小林は捜査ファイルでバーンと机を叩《たた》いた。 「ぼくには上の考えてることが、まったくわからん!」  鷲尾はソファにもたれて黙って聞いていたが、小林の怒りが一段落したところで反撃に移った。 「彼女の前で、酔ってもいないのに酔ったふりをするな」 「え……」 「なにがブワーッと言いたいこといっちゃいましょう、だ。おまえの手法は容疑者と決めた人物をモノ扱いして人格を認めない。あれでは被疑者は自己防衛のため、仮にシロでも嘘《うそ》を重ねることになる。そこの矛盾を衝《つ》かれれば誰でもうろたえる。おまえのは容疑者づくりの捜査だな」 「なんだと、侮辱するのか」 「それに、あのズサンな資料分析はなんだ!」  鷲尾は立ち上がって小林の方へ歩み寄った。 「バスタブに遺留された毛髪の鑑定を依頼したとき、死亡した木倉浩一と発見者山添亜希子のサンプル毛髪との比較照合しか依頼していないじゃないか。その結果、たしかに両名の毛髪がそれぞれ十本以上確認された。だが、亜希子の毛髪が発見されたことで満足したおまえは、特定されない他の十三本の毛髪について、再鑑定の依頼を怠った」  ピッと二人の腕時計が鳴って、午前零時を知らせた。  と、それを合図にしたように、鷲尾がいったん話を中断した。 「ちょっと待ってくれ」  鷲尾は、そばにあった電話を取り上げて自宅を呼んだ。 「ああ、真弓か、まだ起きてたのか。当然? そうか、ところでママは? 風呂。じゃあ伝えといてくれ、メシをすっぽかしてゴメンと。こんど非番のときのデートで埋め合わせをするからってな。それから健志に伝言だ。頼まれたコンサートのチケットとれたから。そうだよ、パパもけっこう顔ひろいだろ。じゃあな、戸締まりはしっかりしとけよ。今夜はだいぶ遅くなるから、うん、おやすみ」  鷲尾は電話を切ると、笑みを消して小林に向き直った。 「で、つづきだが」 「あきれたな」  小林は、ほんとにあきれた顔をした。 「おまえは、いちいちそんな電話をするのか」 「きみんとこだって奥さんがいるんだろう」 「あれは勝手にやっている。子供の教育で頭がいっぱいだし、入院中のオフクロの面倒も見なきゃならん。すれちがいで三、四日口を利かなかったなんてザラだ」 「醒《さ》めたもんだね」 「刑事の女房なんてそんなものだと割り切っているさ。それに新婚じゃあるまいし、十五年もたてば空気みたいなもんだ」 「ま、いい。で、例の毛髪の件だ」 「あれは後から調べようと思っていた」 「思っていた、じゃ遅いんだ。彼女らに毛髪の提出を求め再鑑定を依頼したところ、特定されなかった残り十三本のうち、七本が五十嵐久美のもの、六本が松永理沙のものと判明した。そのことをきみらは見逃していたんだぞ。世間の人間が聞いたら、そんないいかげんな捜査はありえないと言うだろう。だが、指揮官の予断ひとつで、ありえない手落ちが生じてしまうんだ」 「おまえに説教される筋合いはない」 「それに、おまえの班の若い刑事は何だ。久美と理沙が美人なもので、事情聴取と称して呼び出しては愚にもつかない雑談を繰り返し、資料として集めた顔写真をみんなで回覧する。その実態を知らんとはいわせんぞ」 「知らんね」 「ひどいやつは夜更けに電話までかけている。日頃、異性に満たされているかいないかが、こういうときに出るんだ」 「へんなこじつけをするな」 「彼らの行動は、根本において山添亜希子の屈折した心理と変わらんじゃないか」 「おまえ、黙ってりゃいい気になって!」  鷲尾は小林に胸倉をつかまれた。が、彼はやめなかった。 「恋に満たされない男たちが、恋に満たされない女を俎上《そじよう》にのせて喜んでいるんじゃないのか」 「やめろ!」  大声をあげて入ってきたのは、小林班の四人の若い刑事たちだった。 「おれたちは、あんたを指揮官として認めてないからな。ふざけたことばかり言いやがってこの野郎。コバさん、やるんならおれたちにやらせて下さいよ」 「おれはな、きみたちのことを……」  鷲尾は小林に締め上げられたまま言った。 「可哀相だと思うよ。性欲はスポーツや趣味に昇華するのが理想だが、やはり適度な自慰で処理するのが現実的にもっとも望ましい、なんて、何十年前のものか知らんが、骨董品《こつとうひん》的な指導要綱で締めつけられてるんだからな。たまったもんじゃないよな」 「………」 「いいか、よく聞け。現場のバスタブから三人の女の毛髪が採取されたことを、きみらはどう解釈するんだ。外でおれの話を聞いていただろう。木倉が死の直前に乱交パーティでもやって三人といっしょに風呂に入ったとでもいうのか」 「山添が犯行をくらますため、同僚の毛髪を置いたんですよ。かんたんなことじゃないっすか」  吐き捨てるように若手の一人が言った。 「つまり、亜希子は念願かなって憧れの上司と結ばれ、その後バスを使い、そしてルームサービスに特注したカンパリのグレープフルーツジュース割りに青酸カリを混ぜ、木倉を毒殺した。こういうこってすよ」 「なぜ亜希子は、木倉を殺す必要があった」 「けっきょくは木倉が、五十嵐久美か松永理沙と結婚することが明らかになったからでしょ。五十嵐も松永も、それぞれが木倉からプロポーズされていたことを認めています。やつは二股《ふたまた》かけてたんです。プレイボーイによくあるパターンでしょ。ただし、結婚しない女というのが彼女らのポリシーだそうでね、イエスの返事は二人とも出していない。  こういうふうにねえ、おれたちゃ、ちゃんとまじめな事情聴取やってんだよ。それを横から出てきて憶測でガタガタ言わないでくれよ。えー!」  若い刑事は、ほとんど『族』ノリで鷲尾にからんだ。  しかし、鷲尾は静かな声で言った。 「亜希子はあの部屋で木倉と寝ていないよ。おれには確信がある。小林は大事なことを見落としているんだ」 「なに?」  おもわず、小林は手をゆるめた。 「最初に署員がかけつけたとき、1402号室のカーテンは開いたままだった。刑事の訪問を受けただけで人目を気にしてブラインドを下ろす亜希子が、カーテンを開けたままセックスをするかね」 「あそこは十四階なんだ。気になるもんか」 「それはおまえの論理、亜希子は違う。あそこは、道路をはさんだ正面にも高層ビルがある。いくらそこの灯が消えていても心理的に覗《のぞ》かれそうな気がするだろう」 「ことが済んでからカーテンを開けたんだ。二人で夜景でも眺めながら、いいムードに浸っていたんだろう」 「いや、これから人を殺すつもりならずっとカーテンを閉めておいたほうが好都合だ。それは当然の心理だ」  解放された鷲尾は、ネクタイを整えながら机の上に腰かけた。 「木倉浩一の死については、当面四種類の可能性が考えられる。第一は自殺。第二は亜希子が殺した。第三は、久美または理沙が殺した。もっとも、二人には絶対的なアリバイがあるから、誰かに委託した可能性。第四は亜希子でも久美でも理沙でもない人物が、犯人というケースだ。  しかし、いずれの場合もバスタブの毛髪の説明がつかない。それが自然に残されたものなら、本当に三人の女が次々に風呂かシャワーを浴びたことになるし、誰かを陥れるために意図的に置かれたものなら、なぜ一人の毛髪に絞らなかったかが疑問だ。  それに留守番電話のことがどうしても引っかかる。木倉にせよ他の人物にせよ、留守番電話について亜希子がどんな複雑な気持ちでいたか、それを知らないかぎり、彼女が告白してくれたようには見事に亜希子を操れなかったろう」 「じゃあ、鷲尾はどういう結論を出すつもりなんだ」  冷静さを取り戻した小林がきいた。 「結論はまだ早い。あと一週間はほしいな。しかし、もうある程度の仮定は立ててあるんだ。ちょっと飛びすぎかもしれないがね」  そう言うと、鷲尾は彼を罵倒《ばとう》した若手刑事の肩をポンと叩《たた》いた。 「頭の柔らかさじゃ、まだまだきみたちには負けないからな」 [#改ページ] 『カルロス』の開店と同時に、カウンター席に関係者が集まった。翌々週の月曜日のことだった。  右端から小林恭兵警部、松永理沙、山添亜希子、五十嵐久美、そして鷲尾康太郎警部だ。他に客はいない。 「いやあ、すっかりおなじみになっちゃったね」  店のトイレに立ち寄ってから遅れていちばん端のスツールに腰を下ろした鷲尾警部が、バーテンダーに笑いかけた。 「ごひいきありがとうございます」  バーテンダーは一礼して全員の前にコースターを置いた。 「そんなに毎日来ていたのか」  小林警部はすぐ隣の理沙の胸にちらちら目をやりながらたずねた。 「そう、ほとんど毎晩かな」 「二度ほどお会いしましたわね」  久美が髪を手で梳《す》きながら、なまめかしい視線を投げた。 「ハンサムな男性がごいっしょでしたわ」 「若くてハンサムな男?」  小林が聞き咎《とが》めたが、鷲尾は笑ってごまかした。 「ところで亜希子どうしてたのよ、会社辞めてから」  理沙がぶっきらぼうにたずねた。 「ええ、適当に」  亜希子は言葉を濁す。 「みなさま、お飲み物は」  バーテンダーの問いかけに、久美はマルガリータ、理沙はいつもどおりバーボン、亜希子はジンライム、小林はウィスキーのウーロン茶割りを頼んだ。 「鷲尾様は?」 「カンパリのグレープフルーツジュース割りをもらおうか」  一瞬、全員のあいだに凍りついた緊張が走った。 「グレープフルーツジュースで割るんでございますね」  バーテンダーが確認した。 「そう、そういうこと。……いやあ、それにしてもみなさん。本日はお忙しいところ御足労かけてすみません」  鷲尾は、何かの会合で挨拶《あいさつ》に立ったような言い方をすると、軽く頭を下げた。 「なにしろ、ようやく木倉浩一さんの事件のメドがついたものですからね。今夜はみなさんに、そのご報告をしようと思いまして」  小林も含めて、皆が『えっ』と声を上げた。 「やっぱり……自殺だったんですか、課長は」  亜希子を気遣いながら、久美がたずねた。 「いえ、他殺です。りっぱな殺人事件ですよ」  また、皆がざわめいた。 「すると、犯人がわかったんですか」  と、理沙。 「ええ、この中にいますよ」  あまりにあっさりと鷲尾が言うので、全員ポカンとして二の句が継げなかった。 「この中と言ったって……」  理沙が目を丸くした。 「刑事さんをのぞけば、亜希子か久美か私じゃない!」 「いや、もしかしたら小林警部かもしれません」  クックッと鷲尾は笑った。 「こっちは、おまえを犯人にしたいよ」  小林が眉《まゆ》を引きつらせて皮肉を言った。 「どこからお話しすると一番わかりやすいかな、と悩んだんですがね。やっぱり留守番電話の件でしょうなあ」  亜希子が硬い表情になった。 「この小林君が、証拠物件として亜希子さんのとっていた伝言テープを久美さんや理沙さんに聞かせてしまったから、亜希子さんの秘密はバレてしまったんですが……いや、亜希子さん、もうこのさい気にしないで」  亜希子はみるみる赤くなった。 「亜希子さんがこの店のカウンター脇《わき》にあるピンク電話からかけていたラブコール、これがじつは架空の恋人にあてたものだということを、久美さん、理沙さん、あなたたちはもっと前から知っていましたね」 「いいえ!」「知りません!」  二人が異口同音に叫んだ。 「だって亜希子の相手の声なんて、ぜんぜんこっちに聞こえません」 「そのとおりですね、理沙さん」  余裕のある態度で鷲尾はうなずいた。 「亜希子さんもバレるはずがないと自信をもっていた。でも、それが独り芝居だということがバレたんです。なぜか——ちょっと実験してみましょう」  鷲尾はカウンターのいちばん端にいたため、ピンクの公衆電話までは身体をひねって腕を伸ばせば届く距離だ。彼はみんなの見ている前で、その受話器を取って十円玉を入れ、どこかの番号をプッシュした。  カシャンと十円玉の落ちる音がして、鷲尾はしゃべりはじめた。 「ああ、ママか、私だ。愛してるよ。うん、いやとくに用事はなかったんだが、ちょっと愛してると言ってみたくてね、あははー。いやいや、何を言ってるんですか。浮気のアリバイ工作じゃありませんよ。アリバイを崩すのが私の仕事なんだから。ま、そんなことで。うん、ほんとにママの声が聞きたかっただけなものでね。……そうだよ、仕事中なんですよ、私は。働いてますよ、きみら家族のために。ははは、それじゃあ」  チンと受話器を置く。小林がしらけた顔で見ていた。 「ちなみに、いまのは家内です。愛妻。決して銀座のママじゃありません」  鷲尾はひとりで照れた。 「さて、みなさん、お気づきでしたでしょうか」  急に鷲尾の顔が引き締まった。 「テレホンカードではなく硬貨でかける公衆電話の場合、通話がつながったときに、十円玉が落ちるカシャンという音がしますね。こればかりは、いくら受話器を耳でピッタリ押さえても、音の出る場所が違うんですから、どうしたって周りには聞こえてしまいます。ねえ、みなさんもいま聞きましたよね、十円玉の落ちる音を。……しかし、亜希子さんはそのことを忘れていたんですな」  亜希子は、あっと小さく叫んだ。 「ふつうは、いま私がやったように相手が出た瞬間に、もしもしと会話がはじまります。しかし亜希子さんの場合は、十円玉が落ちてからしばらくは喋《しやべ》れない。留守番電話の応答テープが回っているからです。ここの部分で平然と芝居をはじめていれば、役者も上級者コースだったんですがね」  うつむく亜希子に、久美と理沙の視線が突き刺さる。 「そこで久美さんと理沙さん、あなたがたは、ああこれは留守番電話にかけているんだな、とわかってしまった。しかも、どんなメッセージを残すのかなと思ったら、いきなり会話がはじまった。これはヘンだぞ、ということになる」 「なるほどねー、さすが刑事さん」  理沙がおおげさに驚いてみせた。 「すごい推理力じゃないですかー。いまのいままで気づかなかったわ」 「そこで屈折した山添さんの行為を、何者かが利用したというわけか」  小林が少し感心したふうに言った。 「『屈折した』は、よけいなんだ」  鷲尾が注意した。 「とにかく、私は一つの仮定を立ててみました。どんないきさつがあったか知らないが、久美さんか理沙さんのどちらかが木倉課長を殺さねばならなくなった、という仮説です。動機は愛情のもつれ、とくに三角関係のもつれが想定できますが、ひょっとしたらお金がらみかもしれない。木倉さんは経理課長の要職におられましたからな。  ま、いずれにせよ、彼を殺すべき理由が犯人にはあった。しかし、自分の手は汚したくない。そこで会社の男を共犯に巻き込む。ミス東港金属どころかミス日本でもおかしくない美貌《びぼう》のお二人だ。どちらの依頼でも男はぐらつきます」 「ずいぶん買いかぶっていらっしゃること」  久美が鼻にかかった声を出した。 「しかし共犯の男だって身の安全は保証されたい。そこで亜希子さんが利用されることになりました。彼女の状況からすれば、謎《なぞ》の留守番電話に必ず興味をもつだろう。そこで木倉さんの声をまねて、何度か呼び出しの実験をすることにしました。  最初、亜希子さんが新宿の書店に現れたときは、ああ作戦はいけるな、と思ったでしょうね。いきなり濃い目のお化粧で登場ですから。その後も誘うたびに、亜希子さんが謎の男にどんどんのめり込んでいくのがハッキリ見てとれた。犯人は共犯者にずっと観察をつづけさせ、いよいよあの日曜日、一気に片をつけに出たのです。  せっぱつまった調子でホテルに誘う。しばらくたってまた亜希子さんの部屋に電話を入れてみると、留守TELのままでぜんぜん本人が出ない。これはうまく罠《わな》にはまってホテルに向かってくれたな、と確信を持つ。そこで共犯者は頃合いを見計らって、木倉さんがルームサービスで頼んだこのカンパリのグレープフルーツジュース割りに……」  鷲尾は、まだ口をつけていない薔薇《ばら》色のカクテルをじっと見つめて言った。 「毒を入れたんです。そして、ハメられたとは知らずにやってきた亜希子さんがすんなり入れるよう、1402号室のドアを細く開けたまま逃げる。これで万事完了です」  沈黙が店を支配した。 「アナだらけだな、その仮定は」  最初に小林が沈黙を破った。 「どうして木倉氏が、共犯者の男と平気で夜中に同じ部屋にいるんだ」 「おっしゃるとおり」  鷲尾は平然としている。 「それから鷲尾のこだわる毛髪の矛盾も解決されていないじゃないか」 「それも、そのとおり。それどころか、もっと大きなアナがある。じつは事件後、久美さんと理沙さんのお二人は、亡き木倉浩一氏をしのんで心底泣き明かしていた、ということなんです」  久美と理沙は、バツが悪そうにたがいに顔を見合わせた。 「ここの店の常連客の何人かが、そういうふうに教えてくれましたよ。しかし、さすがにバーテンさんはプロですな、たずねても口が固くて、客のプライバシーは一切おっしゃらない」  バーテンダーはいまも知らんふりでグラスを磨いている。 「けっきょく、口では生涯独身論を唱えておられても、好きな男性の前では感情が理論を超えるらしい。久美さんと理沙さんは、その時点で犯人候補から脱落です」 「それじゃあ、やっぱり刑事さんは私のことを……」  泣きそうな顔で亜希子が言った。 「いいえ、あなたでもありません。もっと盲点があったんですよ」  三人の女性が一斉に小林警部を脅えた目で見た。 「ちがいますよ。いくらなんでも彼ではない。ほら、盲点ですよ。存在そのものが盲点のような人がそこに立っているでしょ」  グラスを磨いていたバーテンダーの手が、キュッと止まった。 [#改ページ] 「プロであればあるほど、客から透明人間のように扱われることが上手になる。そこにいるのに、いない。つまり、存在を否定されてはじめて一流のバーテンダーとなる」  彫像になったバーテンダーを横目に、鷲尾は解説をつづけた。 「バーテンダーという職業は、黙っていながらさりげなく客の様子を観察しています。じつは、彼こそが亜希子さんの演技を見破っていた唯一の人間だったんです。十円玉が落ちてからしゃべり出すまでの不思議な時間差に、彼だけは注意を向けていた。なにしろ、この電話のすぐそばでシェイカー振っているんですから」  小林警部が、あぜんとした顔でバーテンダーを見る。  しかし相手は、肩の位置にもってきたグラスを磨いているポーズで静止したままだ。  居並ぶ人間の中で、彼だけが等身大の写真のように見える。 「彼は、ある理由で木倉さんを殺すつもりになった。そこで、まえもって気づいていた亜希子さんの留守番電話の件を利用することにしました」 「すると、テープの声は……」  無意識の癖で髪の毛を梳《す》きながら、久美がきいた。 「残念ながら、木倉さんではありません。カウンターの向こうにいる彼の声です」  その言葉に、亜希子はがっくりと肩を落とした。 「亜希子さん、あなたをホテルに呼び寄せただけでは不十分と考えた彼は、いかにもその場での性行為を示唆するかのように、バスタブにあなたの毛髪を残しました」 「でも、どこで私の髪の毛を」 「ここでですよ」  鷲尾は席を指さした。 「女性は話をしながら髪をいじる癖があるでしょう。けっこうそのときに抜け落ちるものなんです」  久美がハッとして、髪を梳く手を止めた。 「彼は二回か三回にわたって亜希子さんの毛を集めたんでしょう。でも、そのとき一緒にいた久美さんと理沙さんのものまで混じることを、たいして気に止めなかった。計画がずさんでしたね。バスタブに三人の女性の毛髪が残されていたのは、こういう事情からなんです」  バーテンダーは五人の客からじっと見つめられていた。バーテンダーの自分が、ここまで客から関心をもって見つめられるのは、いまだかつてない体験だった。  そして彼のその硬直した身体は、そのまま有罪を認めた証拠だと、誰の目にも映った。 「どうして、どうしてあなたは木倉さんを殺したの」  久美が目を潤ませながらきいた。  返事はない。白い布でグラスを磨いていた格好のまま、彼はまったく動きもしなければ、しゃべりもしなかった。まばたきすらしていないのではないかと思えるほど、彼は凍りついていた。 「彼も愛していたんですよ、木倉さんを」  代わって答えた鷲尾の言葉に、三人の女が同時に息を呑《の》んだ。 「そして木倉さんも、彼を愛することができたのです」  久美も、理沙も、そして亜希子も、あぜんとして言葉がなかった。 「考えてみれば、ですよ、恋愛感情は異性の間にしか芽生えないという思い込みこそ、先入観念の最たるものかもしれません。また、同性愛に走る人間が、それでは絶対に異性を愛せないかというと、そんなこともない。人間が人間を好きになるというレベルでみれば、そこには男とか女という壁は取り払われてしまうんじゃないですかねえ」 「警察官とは思えんな、おまえは。そういう言葉がスラスラと口から出るなんて」  小林警部が、異星人でも見るような目つきで鷲尾を見た。 「女性を愛しながら男とも寝られるなんて、そういうのは異常者じゃないか。それをあたかも正常の行為だとするのは不謹慎だ、不道徳だ」 「では、異常と正常の境目は何かね」  まじめな顔で、鷲尾は問い返した。小林は答えられない。 「わからなかったら教えてやろうか。それは、個人個人が内に持っている『常識』だよ。この常識のラインがどこにあるかで、異常と正常の境界線は相対的に変化する。つまり、何を正常と思い、何を異常と思うかは、個人差があるということだ」 「………」 「逆に言えば、常識の枠を取り払ってみれば、どんな事件も異常には見えない、ということだよ」  鷲尾は、あの日警視総監から言われた『チーム・クアトロ』発足の趣旨と同じことを、小林に言った。 「さてと」  木倉が目の前のバーテンダーと恋人どうしだったことを示唆され、愕然《がくぜん》となっている女性たちに向けて、鷲尾はつづけた。 「私は三晩連続で、とびきりハンサムな若い男の子を日替わりで連れてこの店を訪れ、そしてこのカウンター席に座りました。バーテンダー氏の反応を見るためにね。そのうち二人はタレント志望の本物のゲイです。ミスターレディと呼ばれる人たちとは違って、見た目は完全な男というタイプです。それからもう一人は、ウチの高校生になる息子の健志。久美さんが見かけたハンサムな男性というのがそうですよ。アルコールがだめだから、ずっとジンジャーエールを飲んでたでしょ。あいつ、カミさん似でね。いい男なんです」 「それで、反応は?」  久美がきく。 「あなたや理沙さんのように大変魅力的な美女を前にしてもポーカーフェイスを崩さないバーテンダー氏なのに、どうも美男子を前にすると様子が違うんですな。協力してくれたゲイの諸君は、さすがにその世界のプロといいましょうか、一目で見抜きましたよ。バーテンダー氏の愛の形態をね」  バーテンダーの顔が紅潮した。  写真のように固定された彼の身体の中で、顔色の変化が、はじめて見せる彼の動きだった。 「彼は、ここのカウンターであなた方の口から木倉さんの名前が出るたびにドキンとしてたんでしょう。亜希子さんから聞いた話の中でも、いつぞやは木倉さんの名前に反射的に驚き、理沙さんに差し出したバーボンをこぼしてしまうという、バーテンダーらしからぬ失敗をしておるようですな」 「あれは、私のせいじゃなかったのね」  そのときのことを思い出して理沙が驚いた。 「ところで木倉さんですが」  鷲尾はつづけた。 「やっぱり、男も三十六くらいになると世間体を気にするんですかねえ。男に適齢期なんてないと思うんですが、木倉さんも人並みに他人の目を気にして、女性と結婚しようと決心した。そして、ふり向けばごく身近に美女がいる。久美さんか理沙さんか、はたしてどちらが木倉さんの意中の人であったのか、それはもうわかりません。いずれにせよ木倉さんは、このどちらかの女性と結婚して、世間の常識からみれば変則的な両性愛——同性愛じゃなくて『両性愛』です——こいつに終止符を打とうと考えたのでしょう」 「わかったわ」  久美が、バーテンダーに向かって唇を震わせた。 「ここで喋《しやべ》ってたこと、みんな聞いていたのね。私たちが木倉さんと結ばれたことも……」 「彼にしてみればたまらない心境だったでしょう」  犯人を観察しながら、鷲尾が言った。 「せっかく木倉氏とは深い交際をしていたのに、ここまできて女にとられるくらいなら、いっそ死んでもらった方が、と思ったとしても不思議はありません。たぶん、それが男どうしのケジメのつけ方なんでしょう。なにも知らない木倉さんと最後の愛を確かめあうと、二人は一つのグラスで乾杯をした。男の愛を象徴する薔薇《ばら》色のお酒でね」  鷲尾は犯人に目をやった。しかし、依然としてバーテンダーは動かない。瞳《ひとみ》の動きも止まっていた。 「できることなら、木倉氏がこの世で飲む最後の酒は、バーテンダーである彼自身が作ってあげたかったかもしれません。ホテルによっては、部屋のミニバーにカンパリやグレープフルーツジュースくらい備えているものですが、残念ながらロイヤルトンホテルの部屋にはそれがなかった。だから木倉氏としても、バーテンダー氏にはバスルームなどに隠れておいてもらって、ルームサービス係にその飲み物を頼むよりなかったのでしょう」  スツールから滑り降りると、鷲尾康太郎警部はカウンターに沿ってゆっくりと歩きはじめた。 「いずれにせよ、彼が犯人だとすれば、すべてが符合するんです。亜希子さんを呼び出す時間帯ですが、日曜日はあれこれ変化するが平日は必ず六時なのも、八時にはこの店を開けなければいけないからです。また、犯行を日曜日に行なったのも、それが『カルロス』の定休日だったからです」 「おい、あんた、反論はないのかね」  小林が腹立たしげにたずねたが、バーテンダーは微動だにしなかった。  亜希子はこれほど人間が彫刻のようになれるとは思ってもみなかった。ドラマのように泣き、喚《わめ》き、叫んで容疑を否認するのかと思った。そうなったら、これまで自分に罪をかぶせてきた人間に対して激しい憎しみが湧《わ》きあがってきたかもしれない。  だが、彼は動かないことで自分の全存在を否定しようとしているのだ。  亜希子が留守番電話に孤独の慰めを求めたように、このバーテンダーの心の奥底にも、他人には理解しがたい心の動きが渦巻いているにちがいない。  そして鷲尾にとっても、彼はこれまでに遭遇したことのない犯人像だった。何度も何度もこの店に通い、しかもずっと目の前にいながら、ほとんどその声を聞くことのない人間——それが、警視総監から鷲尾警部に与えられた最初の試練となる殺人事件の犯人だったのだ。 「さてと、店じまいの用意をしますかな」  区切りをつけるように鷲尾が言った。 「わるいけど、ここに入ってくるときに『臨時休業』の看板を掛けさせてもらったのでね。客は入ってこないから落ち着いてやりなさい。ガスの元栓はちゃんと切って、電気のブレーカーも落として。しばらくは、この店にきみが戻ることはないだろうからな。それからえーと」  鷲尾はあたりを見回した。 「小林、防火責任者の札を探してくれないか。彼の名前、まだ誰も知らないだろう」 [#改ページ]  事件終了から一カ月後、鷲尾康太郎警部は内々に刑事局長の呼び出しをうけ、特別犯罪捜査班『チーム|4《クアトロ》』最高責任者の極秘辞令を受け取った。  よけいな口出しを承知で、鷲尾は他の三人の顔ぶれをたずねた。 「三人とも異業種からの中途採用だ」  刑事局長は言った。 「そのうち、二名までは決まっている。ひとりは銀行員、ひとりは小学校の先生——これは女性だ」  鷲尾はポカンとして聞いていた。 「二人とも警視総監のコネクションによる一本釣りだ。残るひとりも、近々決定するだろう。ま、このアイデアが無謀となるも秀逸となるも、きみの腕ひとつにかかっている」  刑事局長は直立不動の鷲尾の尻《しり》をポーンと叩《たた》いて言った。 「たのむぞ。警視庁はきみに賭《か》けたんだ」      *     *     *  同じ日——  山添亜希子は、自分の部屋に飾ってあった一枚の額入りの絵を取り外した。  美術書から切り抜いたロベール・ドローネーの『パリの街』である。  彼女は床にひざまずいて、下ろした額の中から中身の絵を抜き取った。絵といっても、これはたんなる印刷物にすぎない。しかし、亜希子は特別な思いをもって、その絵を眺めていた。  五分、十分、彼女はずっと眺めていた。  いろいろな出来事が頭をよぎり、瞳《ひとみ》に涙がにじんできた。 「さよなら、ロベール」  一枚のカラー印刷物に向かって、亜希子はつぶやいた。 「短い間だったけれど、つきあってくれてありがとう」  最初はその紙を破るつもりだった。けれどもそれができずに、亜希子はそっとリビングのじゅうたんの上に置いた。そして、額縁だけを持って玄関へ行った。  ドアのそばに置いてあった段ボール箱にその額縁を入れると、亜希子は靴を履き、がらんとしたリビングルームをふり返った。  テーブルもない、食器棚もない、オーディオセットもない、そして窓に掛かっていたブラインドもない。  それらはすべて、人生のやり直しをする新しい土地に運ばれていた。  カーペットの真ん中に置かれた一枚の絵と、それから、もう二度と使うつもりはない留守番電話だけが、空っぽの部屋にポツンと残っていた。  電話機はコードも抜かれ、電源も切られて、メッセージを知らせる赤いランプのところは黒っぽくくすんでみえた。 「ほんとにさよなら、ロベール」  もう一度つぶやくと、亜希子は段ボールの箱を抱えてマンションのドアを開けた。  外は、いつのまにか秋の色に染まりはじめていた。  二年前に見たパリの秋に、どこか似ている色だった。 [#改ページ]  一枚の写真㈰ パリの思い出  ヴィーナスのお尻[#「 ヴィーナスのお尻」はゴシック体]  一九九二年のクリスマスイブ、ルーブル美術館に行った。  海外に行くと必ず美術館や博物館には立ち寄るが、ルーブルの作品所蔵量はケタはずれで、一日どころか一週間かけても見きれないほどの名画や彫刻が展示されており、しかも美術史に燦然《さんぜん》と輝く傑作の数々が、ガラスなどの遮蔽物《しやへいぶつ》を通さず、直接まぢかに見ることができる。(ただし、ダ・ヴィンチの『モナリザ』だけは例外的にケース入り)  紀元前二世紀後半のものとみられる、かの有名なミロのヴィーナスは、ルーブルのシュリー翼一階にあるが、この後ろ姿を見た人はあまり多くないのではないか。  ヴィーナス像はちょうど通路の中央にデンと据えられており、前からも横からも後ろからも観賞できる。立体の彫刻なのだからこの配置は当然なのだが、ほとんどの人が、平面芸術である絵画と同じように真正面からしか見ない。  日本人のみならず、世界各地からきた観光客がこの歴史的な作品の前で記念写真を撮っているが、後ろからのショットを撮影しているのは私だけだったし、なんでそんな場所から撮っているんだ、という顔をされたものである。 (画像省略)  しかし、衣の上にのぞいたお尻の割れ目は、なかなか色っぽい。せっかくパリのルーブルまでやってきたのなら、ヴィーナスのお尻を見ずして帰るのはもったいないと思うんですけれど……。  さて、本作『「巴里の恋人」殺人事件』は、ベースとなった自作の短編がある。それは、私が専業作家になる直前に書き、角川書店の『野性時代』誌に発表した『留守番電話をかける女』という作品で、その年の日本推理作家協会賞の短編賞の候補になった。  そして、この短編を読まれた何人かの編集者の方が、まったく無名の私に長編を書いてみませんかと話をもちかけてくださった。つまり、私がプロの作家へと踏み出すきっかけとなった作品のひとつなのだ。この原作は、日本推理作家協会編纂のオムニバス短編集『ミステリー傑作選27 真犯人は安眠中』 (講談社文庫) に収録されているものの、個人作品集の中にはまだ入れていない。  そこで、原作には出てこないロベール・ドローネーの絵をモチーフに、サイズを拡大して中編化し、今回こういう形で発表することにした。したがって、大半の読者にとっては、鷲尾康太郎警部もチーム|4《クアトロ》も初のお目見えということになる。四人のメンバーのうち、とりあえずは鷲尾警部の登場となったわけだが、近いうちに他の三人のメンバーもお披露目することになると思う。  ところで、本作を第一弾とするワンナイトミステリー・シリーズは、いままで単独では成立しないと考えられていた≪中編推理≫というジャンルに焦点をあててみようと思いついてはじめたものである。私の長編は平均して五百枚以上のものが多いのだが、このシリーズは文字どおり一夜《ワンナイト》で、しかも徹夜は不要で、寝酒《ナイトキヤツプ》がわりに、一〜二時間で読めるサイズに徹した。さらに、なんとなく気づいてくださったかもしれないが、ベッドの明かりでも目が疲れないように、本文の活字も通常より大きめのものを使い、一ページの行数も少なくする配慮をしてみた。  第一期発売の他の二作品は、それぞれ精神分析医《サイコセラピスト》・氷室想介、推理作家・朝比奈耕作が主役を張っている。今後もワンナイトミステリー・シリーズには吉村達也のもつキャラクターが総動員して交互に主役を担当し、一夜のミステリー物語をみなさんにお届けします。どうぞご期待ください。 角川文庫『「巴里の恋人」殺人事件』平成7年8月25日初版発行                  平成12年10月15日3版発行